 | 「天地人」より「 儀~貫く力」~信州松本城~ 日本三大名城の一つ、信州松本城です。 前身の深志城は、永正元年に林城主小笠原貞朝 の家臣島立貞永が築いた。 その後、天文19年に小笠原長時は武田信玄によって攻められ滅亡。信玄は、重臣馬場信 春を深志城代として信州経営の拠点とした。 天正10年に武田氏滅亡後、織田信長は小笠原貞慶を城主とした。貞慶は、深志城を改修 して名も深志から松本へと改めた。 天正18年、徳川家康の関東移封に従って小笠原氏は下総古河へ移り、替わって石川数正 が8万石で入城する。 今に残る天守を始め城を近世城郭へと数正が大修築を行った。 慶長18年、石川康長は改易されて豊後佐伯で謹慎の身となり、替わって、信濃飯田より 小笠原秀政が8万石で入る。 元和3年、小笠原忠真が播磨明石10万石に転じた後、松本城主は戸田・松平・堀田・水 野氏と替わり、享保10年に志摩鳥羽より6万石で戸田光慈が入封。 以後戸田氏が明治まで城主であった。 撮影日時 平成21年8月30日BGM NHK大河ドラマ「天地人」より儀~貫く力 2011年04月02日再生回数 1322
|
![松本城[Matsumoto Jo, Matsumoto Castle]](http://i.ytimg.com/vi/a1E-Fs2QfeQ/default.jpg) | 松本城[Matsumoto Jo, Matsumoto Castle] 松本城:長野県松本市別名:烏城・現在日本名城100選の1つ、現存天守閣は国宝に指定・近年では世界遺産登録の推進活動がされている---------------------- 永正元年(1504) 小笠原氏により林城の支城として深志築城、松本城の始まりと言われる天正10年(1582) 武田氏滅亡後、徳川家康配下の小笠原貞慶により、松本城に改名天正18年(1590) 石川数正が入城文禄2年(1593) 石川康長により天守閣着工慶長18年(1613) 石川康長改易により、小笠原秀政が入封元和3年(1617) 戸田康長入封寛永10年(1633) 松平直政が入封、月見櫓・辰巳附櫓・八千俵蔵などを建設寛永15年(1638) 堀田正盛が入封寛永19年(1642) 水野忠清入封享保11年(1726) 水野氏改易により、戸田光慈が入封明治2年(1869) 藩主戸田光則は版籍を奉還明治5年(1872) 天守の競売による解体の危機を市川量造らにより買い戻される・ ・ ・ ---------------------- 松本城HP(松本市) www.city.matsumoto.nagano.jp BGM : 「夜桜小路」 」秋山裕和 www.hmix.net 2011年06月05日再生回数 645
|
 | 全国でも珍しい水上の市道 横須賀浦賀 20120424 浦賀の渡し船近所の渡し船を見に行きました。 2012年4月24日以下引用) ポンポン船の愛称で親しまれ、浦賀のシンボルになっている渡船は、港に隔てられた東西の浦賀の町を行き来する人にとって、大切な交通手段です。 時刻表は無く、渡船が対岸にいるときは、呼び出しボタンを押すと、すぐに来てくれます。約3分ほどの船旅ですが、浦賀造船所跡地に建つクレーンやドックを海から眺めることができます。 渡船は、浦賀に奉行所が置かれてまもない享保10年(1725年)ごろから始まる長い歴史を持っています。 江戸時代には、船が1艘で船頭さんが2人。この船頭さんの生活と船の維持管理は、東西浦賀の人々や、鴨居や久里浜などの近隣の方の協力を得て、まさに生活に欠かせない船でした。 明治11年(1878年)からは、東西浦賀の17町内会の共同体が維持管理をするようになりました。 この時の運賃は1人1厘5毛で、営業時間は朝6時から夜10時までで、夜間の運賃は倍額と定められました。これが公営交通としての渡船の誕生です。 浦賀町が渡船に関わるのは、それから40年後の大正6年(1917年)のことです。 この頃が渡船の最盛期であり、1日の平均乗船客が1000人にも達していて、現在の場所から300mほど港の内で、もう1ルートの営業が行われていました。 昭和18年4月、浦賀町が横須賀市と合併して、渡船も横須賀市からの委託経営となり、昭和30年代後半には機械化された船による航行となりました。 現在の船(愛宕丸)は、平成10年8月9日に就航しました。 それまでの木造船から大型化し、江戸時代の「御座船」をイメージしたFRP(強化プラスチック)製の船になっています。 ちなみに、渡船の航路は「浦賀海道」と名付けられ、全国でも珍しい水上の市道(2073号線)です。 ▼ 乗り場東渡船場(東浦賀2-22先 ... 2012年04月24日再生回数 146
|
 | ふるさと お月見コンサート 坂野家住宅(豪農)という茨城県常総市にある国指定重要文化財にて、H23.10/9にお月見&クラシックコンサートが行われました。 唄:有井英樹、ピアノ:蓮沼万里、フルート:鈴木祐子、パーカッション:三田浩則坂野家は、この地に土着してから五百年ほどになると言われ、享保10(1725)年に始まる飯沼新田開発では、地元の責任者である「頭取」に任ぜられるなど、この地方の有力な名主であったことが伺われる。その屋敷地は、1haにおよぶ広大な台地全面に位置し、周囲に塀を巡らす。南面に配された表門(薬医門[やくいもん])は、本来、武家屋敷に設けられることを考えると、当時の坂野家の格式の高さが偲ばれる。平成10年に坂野氏より市が建物と屋敷地を譲り受けた。 主屋は、平成15~18年に解体修理が行われ、その過程で増改築の変遷がほぼ明らかとなったことから、座敷部が増築されて形が最も整った天保9(1838)年の姿に復元された。18世紀初め頃に建てられたと考えられる居室部と増築された座敷部からなり、居室部の木割の大きい柱・梁で構成された架構は豪壮で意匠も優れており、また、「広間」前面の柱間二間には蔀戸(しとみど)が吊られ、その上に欄間(らんま)を設ける。この蔀戸と欄間による立面意匠は、この地方では例を見ない。座敷部は、南から「一の間」「二の間」「三の間」と呼ばれ、「二の間」東側には式台付の玄関、「一の間」には床・棚、「二の間」には床が設けられ、境には透彫りの欄間を入れ、長押(なげし)には釘隠を打つなど豪農住宅の客間としてよく整えられている。 大型住宅として数少ない遺例であり、表門及び塀とともに豪農の屋敷構を伝えている。 2011年10月11日再生回数 184
|
 | 2012 ふるさと祭り東京 IN 東京ドーム 青森・ねぶた祭 2012年1月14日【主催】ふるさと祭り東京実行委員会(フジテレビジョン、文化放送、東京ドーム) 【期間】日本のまつり、故郷の味と題して、2012年1月7日(土)~1月15日(日)東京ドームにて 青森ねぶた祭は、日本各地の祭りの中でも屈指の大きな祭典に発展した。 今から約二七〇~二九〇年前、享保年間の頃に、油川町付近で弘前のねぷた祭を真似て灯籠を持ち歩き踊った記録があるが、果たしてこれほどの祭りになろうとは、当時の人びとは夢にも思わなかったことだろう。 2012年01月18日再生回数 608
|
![甲府城[Kofu Jo, Kofu Castle]](http://i.ytimg.com/vi/t203-ULBRcw/default.jpg) | 甲府城[Kofu Jo, Kofu Castle] 甲府城跡(舞鶴城公園):山梨県甲府市別名:舞鶴城、一条小山城、赤甲城・日本名城100選の1つで山梨県指定史跡・何代もの城主により築城され、江戸時代には徳川家が直轄---------------------- 天正11年(1583) 武田氏滅亡後、徳川家康により築城、家臣平岩親吉が行う天正18年(1590) 徳川家康の関東移封により、豊臣秀勝(豊臣秀吉の甥)が城主となる天正19年(1591) 加藤光泰が城主となり、築城再開文禄2年(1593) 城主浅野長政、幸長父子により城が完成慶長5年(1600) 関ヶ原の戦での徳川家康の勝利により、平岩親吉が再び城代となる慶長8年(1603) 徳川義直(徳川家康の九男)が城主となる慶長12年(1607) 徳川義直の清洲転封により、城番制となる元和2年(1617) 徳川忠長(徳川秀忠の次男、駿府城主)の支城となる寛文元年(1661) 徳川綱重(徳川家光の三男)が城主となる延宝6年(1678) 徳川綱豊(徳川綱重の嫡男、後の六代将軍家宣)が城主となる宝永2年(1705) 親藩以外では初の柳沢吉保が城主となる享保9年(1724) 柳沢吉里(柳沢吉保の嫡男)の移封により、幕府直轄領となる明治元年(1868) 板垣退助らが無血入城明治6年(1873) 廃城---------------------- 残念ながらカメラの設定を間違え、素材の画質が悪いです。 甲府城HP(甲府市) www.city.kofu.yamanashi.jp 2011年06月05日再生回数 447
|
![[2010-11-06]市川市大洲防災公園いちかわ市民まつり2010(4)](http://i.ytimg.com/vi/IuuKnOn186M/default.jpg) | [2010-11-06]市川市大洲防災公園いちかわ市民まつり2010(4) 市川市大洲1丁目の市川市大洲防災公園にて,いちかわ市民まつりが,2010年11月6日(土)におこなわれた. 今回で,35回目の開催となる. おまつり広場でおこなわれたオープニングセレモニーのひとつとして,市川鳶職組合の木遣り(きやり)とはしごのり演技がおこなわれた. はしごのりは,江戸時代に火災発生時にハシゴを垂直に立てて上り,火事場を確認することから始まった. 当時の火事の火消は,大量の水をかけるのではなく,火事場周辺の木造住宅を破壊することによって,延焼を防ぐ方法をとっていた. 1641年(寛永18年)の桶町の火事の大火によって,消防隊(大名火消)が組織化された. 12 年後の1657年(明暦3年)の明暦の大火で,江戸の大半が焼失したため,幕府は新たに常設の定火消制度を設置した. これが,職業消防士の始まりといわれている. 奉書火消,大名火消,定火消(じょうびけし)などの火消制度で火災に対応したが,その後も大火に見舞われた. これらの火消は,庶民のためのものではなかったからだ. 1718年(享保3年),町方は一町に付き最低30人を出して消火に当たらすべしとし,町火消ができた. それ以外の者が火事場に駆けることを禁止,町火消を世襲制とし他の職につくことも禁止にした. その町火消の費用(給料)は,町費で分担する仕組みになっていた. メンバーの高齢化にともない,はしごのりにおいても,後継者がいない. 鳶職(とびしょく)以外の仕事に従事している人も応募できる. blog.livedoor.jp 2010年11月07日再生回数 366
|
 | 44 平之荘神社・報恩寺 44 今も残る村を挙げての伝統行事は秋祭りの獅子舞 平之荘神社・報恩寺 平之荘神社は、明治初年の神仏分離まで、西隣の報恩寺の鎮守神でした。祭神は建速素盞鳴尊(たけはやすさのおのみこと)外6柱です。播磨守護赤松則村の庇護を受け、近郷の人々のお参りが盛んでした。現在の本殿は享保18年(1733)の造営と言われています。毎年10月第2月曜に行われる秋祭りには、獅子舞、樽みこしが奉納され、多くの人で賑わいます。報恩寺は真言宗の寺院で、本尊は十一面観世音菩薩です。元明天皇の和銅6年(713)慈心上人の開基と言われています。鎌倉・室町時代の石造遺品が多く、県指定重要文化財の石造十三重塔、市内最古の石造五輪塔などがあります。 ちょっとワンポイント 地元の子供たちが演じる狂言平之荘神社では、毎年2月に隣接する平荘小学校6年生、約50人が狂言を演じるという全国でも珍しい取り組みを行っています。狂言師の先生から指導を受けて、築300年を超える境内の能舞台で堂々と演じる子供たちの姿は見応え十分です。 加古川観光協会ホームページURL:kako-navi.jp 2012年03月12日再生回数 29
|
 | 和菓子処 大和甘林堂 - 地域情報動画サイト 街ログ ★詳しくは地域情報動画サイト 『街ログ』 で⇒ machi-log.jp 大和甘林堂は、享保4年(1719年)に創業の老舗の和菓子屋です。地元特産のもち米、小豆、大豆に、三国港に持ち込まれた珍品砂糖を加えて作る「鶯餅」は上品で優雅な風味です。お茶菓子用に、ご贈答用に「鶯餅」をご愛顧ください。 2009年04月18日再生回数 1035
|
 | 18/20 「徳川吉宗 ~暴れん坊将軍の功罪」 ~'11.02.06 良くわかる歴史講座 平成23(2011)年2月6日に大阪・茨木で行った、第12回良くわかる歴史講座「徳川吉宗 ~暴れん坊将軍の功罪」(講師:黒田裕樹)の様子です。黒田裕樹の歴史講座 rocky96.blog10.fc2.com 2011年02月06日再生回数 156
|