「倭国大乱」に関連した動画の一覧 |
![]() | 卑弥呼物語 第三話 金印が語る倭国の乱 「記紀」や神話の中に秘められた真実とは・・・あなたの「記紀」や神話に対する認識がきっと変わります・・・ 金印が語る倭国の乱 その国、本は男子を以て王となす。往(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴(ふ)。乃(すなわ)ち一女子を共立して王と為す。名付けて卑弥呼と曰(い)う・・・「魏志倭人伝」 この倭国の乱の原因として、例えば、王位継承権の争奪などが挙げられていますが、説得力を持つ説や興味を惹く説が存在しないのが実情です。 古い時代の出来事であり、参考文献も乏しく、無理からぬことではありましょう。 ところが、この倭国の乱の原因として、興味深い新説を唱える論者がおりますので紹介しましょう。 倭国の乱について、後漢書には「桓霊間倭国大乱」とあり、後漢の第11代の桓帝(西暦146-167)と第12代の霊帝(西暦167-188)の間に生じたと記録されています。 共立された卑弥呼は、この倭国の乱の後、景初二年(三年とする説あり)西暦238年に魏の皇帝に朝献し、「親魏倭王」の金印を賜っております。 ところで、金印といえば、「漢委奴国王」印がよく知られています。 「後漢書」東夷伝に、「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀 使人自称太夫 倭国極南海也。光武賜以印綬。」とあり、卑弥呼の朝献より凡そ180年先の西暦57年に、倭国の極南海に位置する奴国が奉貢朝賀して、光武帝より印を賜ったことが記されています。 時代が下がって、天明四年、西暦1784年に、福岡県の志賀島で、百姓の甚兵衛なる者が田の溝を修理している時、偶然に金印を発見しております。 その金印が、「漢の倭の奴の国王」と読解されている「漢委奴国王」印です。 新説の論者は、「史記」秦始皇本紀第六の冒頭部分に、「王年少、初即位、委国事大臣」と記され ... 2011年12月24日再生回数 296 |
![]() | 登呂遺跡 縄文の子孫が暮らす、弥生後期水田集落遺跡を訪ねた。ここの発見は戦時中昭和18年と古く、弥生後期(AD200-300) の8ha水田跡に隣接して、平地式住居・高床倉庫・祭殿跡からなる大型集落遺跡であった。1M泥炭層下で長期保存された多数の遺物の中には、「倭国大乱」の時代の渦中にありながら、武器もなく防御柵も環壕もない縄文伝来の平和な共同生活を物語るものばかりであった。どのように平和で豊かなムラの暮らしを保ちえたのか興味がつのる 2009年06月08日再生回数 3286 |
![]() | 池上曽根遺跡 池上曽根遺跡は弥生中期ー後期(BC300ーAD200)に亘る巨大環濠集落で、環濠内に神殿とみなされる大型高床式建物および隣接して今尚聖なる湧き水を湛えた大井戸が発見されている。当時の北九州同様の宮殿のある王の国であったと思われ、中国の歴史書に記された倭の百余国の中の1国であった可能性が高い。最盛期には千人強の住民が住んだ様で、金臓器工房や石包丁工房あとがあり、盛んな農具・狩猟用具・漁労用具・生活用土器の生産が行われ、大いに交易をやり、農耕儀礼の祭りをやったあとが偲ばれる遺跡であった。尚、「倭国大乱」の時代の渦中にありながら、武器は見当たらず、何回も掘りなおされた環濠はやがて灌漑生活用と変化したようで、平和な縄文時代の伝統を色濃く残していた様子が伺える。 2009年09月03日再生回数 638 |
![]() | 「武器の歴史」『天理参考館のこころ』(9) 天理参考館の収蔵品を紹介しながら、ものを通して垣間見える〝こころ〟にふれます。 2012年05月04日再生回数 9 |



