「即位灌頂」に関連した動画の一覧 |
![]() | 「空海の風景」3/7司馬遼太郎 "街道を行く" 2002年1月15日放送 「空海の風景」3/7司馬遼太郎 "街道を行く" 2002年1月15日放送真相はこちら→ blogs.yahoo.co.jp 「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。 大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に滞在する。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。 空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。 空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期(けつご)の罪にあたるとされた。そのためかどうかは定かではないが、大同元年(806年)10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた。大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていた。 真言密教の確立 [編集] 大同4年(809年)、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位した。空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。 この空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、といわれている。その後、二人は10年程交流関係を持った。密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし ... 2011年11月04日再生回数 4178 |
![]() | 歴史資料が語るチベットの中国所属、国家 主権 中国のチベットに対する主権はあまりにも多くの証拠に支えられているため、これを主張する必要すらありませんでした。しかし、外国人が中国の歴史を知らないのをいいことに、真っ赤な嘘を言う人が現れています。ならば、真実を伝えてそれを撃退するしかありません。 【唐・宋】(618-1279) チベットは中国の南西に位置しています。そこに住むチベット族の祖先は、内陸部の平原に住む漢民族との間に、キリスト教時代よりもずっと前から繋がりを持っていました。その後の長い年月を経て、チベット高原に点在していた多数の種族が現在のチベット族に統一されました。 7世紀の唐の時代、チベット族と漢族は王室の間で姻戚関係、盟約を結んで、政治的な友好関係を形成し、経済と文化の上でも密接に結びつき、最終的に統一国家をつくるための基盤を固めました。641年、唐の太宗の皇女、文成公主がチベットの吐蕃王朝ソンツェン・ガンポ王に嫁ぎました。ポタラ宮には今でも文成公主の塑像が奉られています。チョカン寺(大昭寺)の前の広場には双方が盟約を結んだことにちなんで、823年に建てられた「唐蕃会盟碑」が立っています。この碑には次のような碑文が刻まれています: 「舅甥二主が社稷が一つとなることについて商議し、大和の盟約を結んで永遠に変わらないことは神、人と共に証し、知るところであり、世世代代にわたり称賛させるものである」。 【元】(1271-1368) 13世紀の初頭、チンギス・ハーンは中国の北方地方にモンゴルの国を作りました。その勢力範囲は止まらない勢いで中国を侵食して行きました。1247年、チベットの宗教指導者サキャ・パンディタ・クンガ・ギェルツェンはチンギス・ハーンの孫ゴダン・ハーンと涼州(今日の武威、中国甘粛省)で会い、モンゴルへの承服を約束します ... 2008年05月14日再生回数 10436 |

