「地峡」に関連した動画の一覧

辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書

初めての方へ

参加元一覧


用語解説|動画|文献|商品|全文検索

「地峡」に関連した動画の一覧

 

西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第3号(1)西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第3号(1) 
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第3号(1) 昭和19(1944)年7月制空権制海権完璧に失ったニューギニア島日本軍ホーランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミそしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸日本軍玉砕追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸機にマノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリ兵力のおよそ半数南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名第2軍参謀長藤塚止戈夫(ふじつかしかお)中将発案とされる、このイドレ転進作戦は、結果的に"飢餓地獄"への無意味無慈悲敗退行軍となった。一週間到達できるとされた距離。しかし、実際には2~5ヶ月を要した。木の根を齧り、泥水を飲んだ将兵容赦なく襲う悪性マラリア熱帯性の下痢。戦わずして、1万数千もの将兵草生す屍と化した。 連合軍は"緑の地獄"と揶揄した。深いジャングル熱帯病を"敵"とした日本軍次々と斃れる将兵一方藤塚中将は、持病の痔の手術を理由に、同地からセレベス経由ジャワ島へ、当時状況下では"破格の"航空機を使っての脱出。残された将兵は、藤塚中将恨みに恨んだと言われている。 マノクワリからイドレへの転進は、先ず先行部隊として、海路幾つかの部隊移動次いで第2軍司令部中枢が、航空機マノクワリ→ムミ)、大発大型舟艇・ムミ→ウェンデシ)、徒歩(ウェンデシ→イドレ)で退却の道を歩んだ。そして残り部隊は、陸路ベラウ地峡へと向かった。 あれから67年。イドレ周辺、そしてヤカチ川周辺瞑る、約1万数千の旧日本軍将兵。あの当時から"放置"されたままの遺骸昭和46(1976)年、厚生省は、このイドレ地区遺骨収集試みた。しかしながら過酷な自然状況に阻まれ、その ...
2011年01月18日再生回数 196
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第6号(1)西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第6号(1) 
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第6号(1) 昭和19(1944)年7月制空権制海権完璧に失ったニューギニア島日本軍ホーランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミそしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸日本軍玉砕追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸機にマノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリ兵力のおよそ半数南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名第2軍参謀長藤塚止戈夫(ふじつかしかお)中将発案とされる、このイドレ転進作戦は、結果的に"飢餓地獄"への無意味無慈悲敗退行軍となった。一週間到達できるとされた距離。しかし、実際には2~5ヶ月を要した。木の根を齧り、泥水を飲んだ将兵容赦なく襲う悪性マラリア熱帯性の下痢。戦わずして、1万数千もの将兵草生す屍と化した。 連合軍は"緑の地獄"と揶揄した。深いジャングル熱帯病を"敵"とした日本軍次々と斃れる将兵一方藤塚中将は、持病の痔の手術を理由に、同地からセレベス経由ジャワ島へ、当時状況下では"破格の"航空機を使っての脱出。残された将兵は、藤塚中将恨みに恨んだと言われている。 マノクワリからイドレへの転進は、先ず先行部隊として、海路幾つかの部隊移動次いで第2軍司令部中枢が、航空機マノクワリ→ムミ)、大発大型舟艇・ムミ→ウェンデシ)、徒歩(ウェンデシ→イドレ)で退却の道を歩んだ。そして残り部隊は、陸路ベラウ地峡へと向かった。 あれから67年。イドレ周辺、そしてヤカチ川周辺瞑る、約1万数千の旧日本軍将兵。あの当時から"放置"されたままの遺骸昭和46(1976)年、厚生省は、このイドレ地区遺骨収集試みた。しかしながら過酷な自然状況に阻まれ、その ...
2011年01月25日再生回数 134
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第12号(1)西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第12号(1) 
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第12号(1) 昭和19(1944)年7月制空権制海権完璧に失ったニューギニア島日本軍ホーランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミそしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸日本軍玉砕追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸機にマノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリ兵力のおよそ半数南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名第2軍参謀長藤塚止戈夫(ふじつかしかお)中将発案とされる、このイドレ転進作戦は、結果的に"飢餓地獄"への無意味無慈悲敗退行軍となった。一週間到達できるとされた距離。しかし、実際には2~5ヶ月を要した。木の根を齧り、泥水を飲んだ将兵容赦なく襲う悪性マラリア熱帯性の下痢。戦わずして、1万数千もの将兵草生す屍と化した。 連合軍は"緑の地獄"と揶揄した。深いジャングル熱帯病を"敵"とした日本軍次々と斃れる将兵一方藤塚中将は、持病の痔の手術を理由に、同地からセレベス経由ジャワ島へ、当時状況下では"破格の"航空機を使っての脱出。残された将兵は、藤塚中将恨みに恨んだと言われている。 マノクワリからイドレへの転進は、先ず先行部隊として、海路幾つかの部隊移動次いで第2軍司令部中枢が、航空機マノクワリ→ムミ)、大発大型舟艇・ムミ→ウェンデシ)、徒歩(ウェンデシ→イドレ)で退却の道を歩んだ。そして残り部隊は、陸路ベラウ地峡へと向かった。 あれから67年。イドレ周辺、そしてヤカチ川周辺瞑る、約1万数千の旧日本軍将兵。あの当時から"放置"されたままの遺骸昭和46(1976)年、厚生省は、このイドレ地区遺骨収集試みた。しかしながら過酷な自然状況に阻まれ、その ...
2011年02月09日再生回数 175
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第7号(1)西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第7号(1) 
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第7号(1) 昭和19(1944)年7月制空権制海権完璧に失ったニューギニア島日本軍ホーランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミそしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸日本軍玉砕追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸機にマノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリ兵力のおよそ半数南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名第2軍参謀長藤塚止戈夫(ふじつかしかお)中将発案とされる、このイドレ転進作戦は、結果的に"飢餓地獄"への無意味無慈悲敗退行軍となった。一週間到達できるとされた距離。しかし、実際には2~5ヶ月を要した。木の根を齧り、泥水を飲んだ将兵容赦なく襲う悪性マラリア熱帯性の下痢。戦わずして、1万数千もの将兵草生す屍と化した。 連合軍は"緑の地獄"と揶揄した。深いジャングル熱帯病を"敵"とした日本軍次々と斃れる将兵一方藤塚中将は、持病の痔の手術を理由に、同地からセレベス経由ジャワ島へ、当時状況下では"破格の"航空機を使っての脱出。残された将兵は、藤塚中将恨みに恨んだと言われている。 マノクワリからイドレへの転進は、先ず先行部隊として、海路幾つかの部隊移動次いで第2軍司令部中枢が、航空機マノクワリ→ムミ)、大発大型舟艇・ムミ→ウェンデシ)、徒歩(ウェンデシ→イドレ)で退却の道を歩んだ。そして残り部隊は、陸路ベラウ地峡へと向かった。 あれから67年。イドレ周辺、そしてヤカチ川周辺瞑る、約1万数千の旧日本軍将兵。あの当時から"放置"されたままの遺骸昭和46(1976)年、厚生省は、このイドレ地区遺骨収集試みた。しかしながら過酷な自然状況に阻まれ、その ...
2011年02月06日再生回数 63
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第12号(2)西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第12号(2) 
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第12号(2) 昭和19(1944)年7月制空権制海権完璧に失ったニューギニア島日本軍ホーランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミそしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸日本軍玉砕追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸機にマノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリ兵力のおよそ半数南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名第2軍参謀長藤塚止戈夫(ふじつかしかお)中将発案とされる、このイドレ転進作戦は、結果的に"飢餓地獄"への無意味無慈悲敗退行軍となった。一週間到達できるとされた距離。しかし、実際には2~5ヶ月を要した。木の根を齧り、泥水を飲んだ将兵容赦なく襲う悪性マラリア熱帯性の下痢。戦わずして、1万数千もの将兵草生す屍と化した。 連合軍は"緑の地獄"と揶揄した。深いジャングル熱帯病を"敵"とした日本軍次々と斃れる将兵一方藤塚中将は、持病の痔の手術を理由に、同地からセレベス経由ジャワ島へ、当時状況下では"破格の"航空機を使っての脱出。残された将兵は、藤塚中将恨みに恨んだと言われている。 マノクワリからイドレへの転進は、先ず先行部隊として、海路幾つかの部隊移動次いで第2軍司令部中枢が、航空機マノクワリ→ムミ)、大発大型舟艇・ムミ→ウェンデシ)、徒歩(ウェンデシ→イドレ)で退却の道を歩んだ。そして残り部隊は、陸路ベラウ地峡へと向かった。 あれから67年。イドレ周辺、そしてヤカチ川周辺瞑る、約1万数千の旧日本軍将兵。あの当時から"放置"されたままの遺骸昭和46(1976)年、厚生省は、このイドレ地区遺骨収集試みた。しかしながら過酷な自然状況に阻まれ、その ...
2011年02月09日再生回数 323
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』創刊号(1)西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』創刊号(1) 
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』創刊号(1) 昭和19(1944)年7月制空権制海権完璧に失ったニューギニア島日本軍ホーランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミそしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸日本軍玉砕追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸機にマノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリ兵力のおよそ半数南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名第2軍参謀長藤塚止戈夫(ふじつかしかお)中将発案とされる、このイドレ転進作戦は、結果的に"飢餓地獄"への無意味無慈悲敗退行軍となった。一週間到達できるとされた距離。しかし、実際には2~5ヶ月を要した。木の根を齧り、泥水を飲んだ将兵容赦なく襲う悪性マラリア熱帯性の下痢。戦わずして、1万数千もの将兵草生す屍と化した。 連合軍は"緑の地獄"と揶揄した。深いジャングル熱帯病を"敵"とした日本軍次々と斃れる将兵一方藤塚中将は、持病の痔の手術を理由に、同地からセレベス経由ジャワ島へ、当時状況下では"破格の"航空機を使っての脱出。残された将兵は、藤塚中将恨みに恨んだと言われている。 マノクワリからイドレへの転進は、先ず先行部隊として、海路幾つかの部隊移動次いで第2軍司令部中枢が、航空機マノクワリ→ムミ)、大発大型舟艇・ムミ→ウェンデシ)、徒歩(ウェンデシ→イドレ)で退却の道を歩んだ。そして残り部隊は、陸路ベラウ地峡へと向かった。 あれから67年。イドレ周辺、そしてヤカチ川周辺瞑る、約1万数千の旧日本軍将兵。あの当時から"放置"されたままの遺骸昭和46(1976)年、厚生省は、このイドレ地区遺骨収集試みた。しかしながら過酷な自然状況に阻まれ、その ...
2011年01月18日再生回数 92
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第6号(2)西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第6号(2) 
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第6号(2) 昭和19(1944)年7月制空権制海権完璧に失ったニューギニア島日本軍ホーランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミそしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸日本軍玉砕追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸機にマノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリ兵力のおよそ半数南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名第2軍参謀長藤塚止戈夫(ふじつかしかお)中将発案とされる、このイドレ転進作戦は、結果的に"飢餓地獄"への無意味無慈悲敗退行軍となった。一週間到達できるとされた距離。しかし、実際には2~5ヶ月を要した。木の根を齧り、泥水を飲んだ将兵容赦なく襲う悪性マラリア熱帯性の下痢。戦わずして、1万数千もの将兵草生す屍と化した。 連合軍は"緑の地獄"と揶揄した。深いジャングル熱帯病を"敵"とした日本軍次々と斃れる将兵一方藤塚中将は、持病の痔の手術を理由に、同地からセレベス経由ジャワ島へ、当時状況下では"破格の"航空機を使っての脱出。残された将兵は、藤塚中将恨みに恨んだと言われている。 マノクワリからイドレへの転進は、先ず先行部隊として、海路幾つかの部隊移動次いで第2軍司令部中枢が、航空機マノクワリ→ムミ)、大発大型舟艇・ムミ→ウェンデシ)、徒歩(ウェンデシ→イドレ)で退却の道を歩んだ。そして残り部隊は、陸路ベラウ地峡へと向かった。 あれから67年。イドレ周辺、そしてヤカチ川周辺瞑る、約1万数千の旧日本軍将兵。あの当時から"放置"されたままの遺骸昭和46(1976)年、厚生省は、このイドレ地区遺骨収集試みた。しかしながら過酷な自然状況に阻まれ、その ...
2011年01月26日再生回数 503
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第10号(1)西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第10号(1) 
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第10号(1) 昭和19(1944)年7月制空権制海権完璧に失ったニューギニア島日本軍ホーランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミそしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸日本軍玉砕追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸機にマノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリ兵力のおよそ半数南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名第2軍参謀長藤塚止戈夫(ふじつかしかお)中将発案とされる、このイドレ転進作戦は、結果的に"飢餓地獄"への無意味無慈悲敗退行軍となった。一週間到達できるとされた距離。しかし、実際には2~5ヶ月を要した。木の根を齧り、泥水を飲んだ将兵容赦なく襲う悪性マラリア熱帯性の下痢。戦わずして、1万数千もの将兵草生す屍と化した。 連合軍は"緑の地獄"と揶揄した。深いジャングル熱帯病を"敵"とした日本軍次々と斃れる将兵一方藤塚中将は、持病の痔の手術を理由に、同地からセレベス経由ジャワ島へ、当時状況下では"破格の"航空機を使っての脱出。残された将兵は、藤塚中将恨みに恨んだと言われている。 マノクワリからイドレへの転進は、先ず先行部隊として、海路幾つかの部隊移動次いで第2軍司令部中枢が、航空機マノクワリ→ムミ)、大発大型舟艇・ムミ→ウェンデシ)、徒歩(ウェンデシ→イドレ)で退却の道を歩んだ。そして残り部隊は、陸路ベラウ地峡へと向かった。 あれから67年。イドレ周辺、そしてヤカチ川周辺瞑る、約1万数千の旧日本軍将兵。あの当時から"放置"されたままの遺骸昭和46(1976)年、厚生省は、このイドレ地区遺骨収集試みた。しかしながら過酷な自然状況に阻まれ、その ...
2011年02月08日再生回数 88
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第9号(1)西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第9号(1) 
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第9号(1) 昭和19(1944)年7月制空権制海権完璧に失ったニューギニア島日本軍ホーランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミそしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸日本軍玉砕追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸機にマノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリ兵力のおよそ半数南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名第2軍参謀長藤塚止戈夫(ふじつかしかお)中将発案とされる、このイドレ転進作戦は、結果的に"飢餓地獄"への無意味無慈悲敗退行軍となった。一週間到達できるとされた距離。しかし、実際には2~5ヶ月を要した。木の根を齧り、泥水を飲んだ将兵容赦なく襲う悪性マラリア熱帯性の下痢。戦わずして、1万数千もの将兵草生す屍と化した。 連合軍は"緑の地獄"と揶揄した。深いジャングル熱帯病を"敵"とした日本軍次々と斃れる将兵一方藤塚中将は、持病の痔の手術を理由に、同地からセレベス経由ジャワ島へ、当時状況下では"破格の"航空機を使っての脱出。残された将兵は、藤塚中将恨みに恨んだと言われている。 マノクワリからイドレへの転進は、先ず先行部隊として、海路幾つかの部隊移動次いで第2軍司令部中枢が、航空機マノクワリ→ムミ)、大発大型舟艇・ムミ→ウェンデシ)、徒歩(ウェンデシ→イドレ)で退却の道を歩んだ。そして残り部隊は、陸路ベラウ地峡へと向かった。 あれから67年。イドレ周辺、そしてヤカチ川周辺瞑る、約1万数千の旧日本軍将兵。あの当時から"放置"されたままの遺骸昭和46(1976)年、厚生省は、このイドレ地区遺骨収集試みた。しかしながら過酷な自然状況に阻まれ、その ...
2011年02月08日再生回数 144
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第11号(1)西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第11号(1) 
西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』第11号(1) 昭和19(1944)年7月制空権制海権完璧に失ったニューギニア島日本軍ホーランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミそしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸日本軍玉砕追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸機にマノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリ兵力のおよそ半数南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名第2軍参謀長藤塚止戈夫(ふじつかしかお)中将発案とされる、このイドレ転進作戦は、結果的に"飢餓地獄"への無意味無慈悲敗退行軍となった。一週間到達できるとされた距離。しかし、実際には2~5ヶ月を要した。木の根を齧り、泥水を飲んだ将兵容赦なく襲う悪性マラリア熱帯性の下痢。戦わずして、1万数千もの将兵草生す屍と化した。 連合軍は"緑の地獄"と揶揄した。深いジャングル熱帯病を"敵"とした日本軍次々と斃れる将兵一方藤塚中将は、持病の痔の手術を理由に、同地からセレベス経由ジャワ島へ、当時状況下では"破格の"航空機を使っての脱出。残された将兵は、藤塚中将恨みに恨んだと言われている。 マノクワリからイドレへの転進は、先ず先行部隊として、海路幾つかの部隊移動次いで第2軍司令部中枢が、航空機マノクワリ→ムミ)、大発大型舟艇・ムミ→ウェンデシ)、徒歩(ウェンデシ→イドレ)で退却の道を歩んだ。そして残り部隊は、陸路ベラウ地峡へと向かった。 あれから67年。イドレ周辺、そしてヤカチ川周辺瞑る、約1万数千の旧日本軍将兵。あの当時から"放置"されたままの遺骸昭和46(1976)年、厚生省は、このイドレ地区遺骨収集試みた。しかしながら過酷な自然状況に阻まれ、その ...
2011年02月08日再生回数 69



注目の情報

モバイル
モバイル版のWeblioは、下記のURLからアクセスしてください。
http://m.weblio.jp/
_ _   

©2012 Weblio RSS