「太政官符」に関連した動画の一覧

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「太政官符」に関連した動画の一覧

 

「空海の風景」5/7司馬遼太郎 "街道を行く" 2002年1月15日放送「空海の風景」5/7司馬遼太郎 "街道を行く" 2002年1月15日放送 
空海風景」5/7司馬遼太郎 "街道を行く" 2002年1月15日放送真相はこちら→ blogs.yahoo.co.jp 承和元年834年2月東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。12月19日毎年正月宮中において真言修法後七日御修法)を行いたい旨を奏上。同29日太政官符許可され、同24日の太政官符では東寺三綱を置くことが許されている。 承和2年835年)、1月8日より宮中後七日御修法修す宮中での御修法はこれより明治になるまで続き明治以後東寺に場所を移して今も行われている。1月22日には、真言宗年分度者3人を申請して許可されている。2月30日金剛峯寺定額寺となった。3月15日高野山弟子達に遺告与え3月21日入滅した。享年62(満60歳没)。 伝真済撰[6]『空海僧都伝』によると死因病死で、『続日本後紀』によると遺体荼毘に付された(火葬された)ようである。しかし後代には、入定した(即身仏となった)とする文献現れる。 「#入定に関する諸説」を参照 天長8年831年)に病を得た以降空海は、文字通りみずからの命をかけて真言密教基盤磐石化するとともに、その存続のために尽力した。とくに承和元年834年12月から入滅までの3ヶ月間は、後七日御修法申請から10日間で許可されその10日後には修法、また年分度者獲得金剛峯寺定額寺とするなど、密度の濃い活動を行った。すべてをやり終えた後に入定、即ち永遠禅定に入ったとされている。 弘法大師 旧宅跡に建つ弘法大師像(善通寺西院延喜21年921年10月27日東寺長者観賢奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。 最初は「本覚大師」の諡号贈られることになっていたが、「弘法利生こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号贈られること ...
2011年11月04日再生回数 4109
「空海の風景」4/7司馬遼太郎 "街道を行く" 2002年1月15日放送「空海の風景」4/7司馬遼太郎 "街道を行く" 2002年1月15日放送 
空海風景」4/7 司馬遼太郎 "街道を行く" 2002年1月15日放送真相はこちら→ blogs.yahoo.co.jp 弘仁2年811年)から弘仁3年812年)にかけて乙訓寺別当務めた。 弘仁3年812年11月15日高雄山寺にて金剛界結縁灌頂開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。さらに12月14日には胎蔵灌頂開壇入壇者は最澄やその弟子円澄光定泰範のほか190名にのぼった。 弘仁6年815年)春、会津徳一菩薩下野の広智禅師菩薩(基徳の誤記か?)などの東国有力僧侶元へ弟子康守らを派遣密教経典書写依頼した。時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなった。この頃『弁顕密二教論』を著している。 弘仁7年816年6月19日修禅道場として高野山下賜請い7月8日には、高野山下賜する旨勅許賜る。翌弘仁8年817年)、泰範実恵弟子派遣して高野山開創着手し、弘仁9年818年11月には、空海自身勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在した。弘仁10年819年春に七里四方結界を結び、伽藍建立着手した。 この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続け執筆した。 弘仁12年821年)、満濃池まんのういけ、現在の香川県にある日本最大農業ため池)の改修指揮して、アーチ堤防など当時最新工法駆使工事成功に導いた。 弘仁13年822年)、太政官符により東大寺灌頂道場真言院建立。この年平城上皇潅頂を授けた。 弘仁14年823年正月太政官符により東寺賜り真言密教道場とした。後に天台宗密教台密、対して東寺密教東密と呼ぶようになる。東寺教王護国寺の名を合わせ持つが、この名称が用いられるようになるのは鎌倉時代になってからである。 天長元年(824 ...
2011年11月04日再生回数 4410
「空海の風景」3/7司馬遼太郎 "街道を行く" 2002年1月15日放送「空海の風景」3/7司馬遼太郎 "街道を行く" 2002年1月15日放送 
空海風景」3/7司馬遼太郎 "街道を行く" 2002年1月15日放送真相はこちら→ blogs.yahoo.co.jp 「虚しく往きて実ちて帰る」という空海言葉は、わずか2年無名の一留学僧として入唐した空海成果がいかに大きなものであったか如実に示している。 大同元年806年10月空海は無事帰国し、大宰府滞在する。日本では、この年の3月桓武天皇崩御し、平城天皇即位していた。 空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海持ち帰ったものは『請来目録によれば多数経典類(新訳経論など216461巻)、両部大曼荼羅祖師図、密教法具阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海請来したのは密教を含めた最新文化体系であった。 空海は、20年留学期間を2年切り上げ帰国したため、当時規定ではそれは闕期(けつご)の罪にあたるとされた。そのためかどうか定かではないが、大同元年806年10月帰国後は、入京許しを待って数年大宰府滞在することを余儀なくされた。大同2年より2年ほどは大宰府観世音寺止住している。この時期空海は、個人法要引き受け、その法要のために密教図像制作するなどをしていた。 真言密教確立 [編集] 大同4年809年)、平城天皇退位し、嵯峨天皇即位した。空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月太政官符を待って入京和気氏私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。 この空海入京には、最澄尽力支援があった、といわれている。その後二人10年交流関係を持った。密教分野限っては、最澄空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし ...
2011年11月04日再生回数 4178



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