「安政元年」に関連した動画の一覧 |
![]() | 豊橋・伊古部の大震災 鎮めの石碑 ~大津波29m~ 2011年6月28日撮影安政元年(嘉永7年/1854年)に、豊橋市伊古部町で大地震と大津波がありました。 安政6年に、網元の仙太郎さんが、震災が二度と起きない事を願って石碑を立てたのです。 石碑は、ささゆりの里にあります。 【記事】toyohashi.tv 【撮影】豊橋ドットテレビ toyohashi.tv 【カメラマン・ツイッター】 http 【BGM】Ahead On Our Way 【撮影機材】ビクターエブリオGZ-HM1 Everio EXモード 2011年06月29日再生回数 2990 |
![]() | 映画「獄(ひとや)に咲く花」予告篇 吉田松陰 生誕180年安政元年(1854年)長州、萩。「野山獄」にひとりの男が護送されてきた。 生きて出られる者は数少ないこの牢獄に、希望を与え、その後の日本を切り拓いた男。 彼の名は、吉田寅次郎。幕末は、この男からはじまった。 吉田松陰。藩の兵学師範の家筋に生まれ、10歳の時に藩主毛利敬親の御前講義を務めた俊英。私塾「松下村塾」を開き、多くの才能を見出し育んだ稀代の思想家、教育者。国を思い、故郷を思い、人を思ったこの偉人は、その思いも半ば、安政の大獄によって刑に処され、わずか29歳でその生涯を終える。 本作では、その短い生涯の中の一場面、藩の牢獄「野山獄」に収監されていた頃の日々を、同じく時代が故の罪状で収監されていた女囚、高須 久の目を通して描かれる。海外渡航を企てるという途方もない大罪を犯し、故郷の獄へ送られてきた彼は、それでも自らの理想を信じ、日々を無為にするのではなく、学び精進し、人と関わり続けた。 2010年03月24日再生回数 4511 |
![]() | 濱口梧稜 「稲むらの火」 占部賢志 「稲むらの火」とは? 実在モデルがいた! ●江戸末期の安政元年、紀伊半島を襲った大地震と大津波の際に、機転を利かせた英断により、村人の命を救った庄屋・五兵衛の物語「稲むらの火」。五兵衛のことは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が紹介したことで、広く知られるようにより、戦前の小学校国語教科書にも掲載されていました。 ●そのモデルとなったのは濱口梧陵でした。幕末から明治にかけ、激動の時代を生き、勝海舟も一目置きましたが、その人物像について、あまり知られていません。 ●平成17年1月、インド洋大津波をうけてジャカルタで開催された東南アジア諸国連合緊急首脳会議で、小泉純一郎総理大臣(当時)は、シンガポールのリー・シェンロン首相から「稲むらの火」について尋ねられたものの、総理はこの話を知らず、答えられなかったそうです。濱口梧陵とは、一体どんな人物だったのでしょうか。 2008年02月21日再生回数 12048 |
![]() | 大地震両川口津浪記石碑 安政元年に発生した地震と、それに伴う津波によって犠牲となった人々の慰霊と、後世への戒めを語り継ぐことを目的として長堀茂左衛門町の森氏が発起し、長堀茂左衛門町の家中と石碑の建つ幸町の人々が協力して建てた石碑である。 大阪市浪速区幸町3丁目9 2011年07月26日再生回数 279 |
![]() | 吉田松陰生誕180年記念映画 「獄に咲く花」 -吉田松陰の恋- DVD発売中 安政元年(一八五四年)長州、萩。 「野山獄」にひとりの男が護送されてきた。 生きて出られた者は誰一人いないこの牢獄に、希望を与え、その後の日本を切り拓いた男。彼の名は、吉田寅次郎。"幕末"は、この男からはじまった。 公式サイト www.hitoya.com 「獄(ひとや)に咲く花」 3990円(税込み/送料無料)全編字幕入り。 問い合わせ/お申し込み先〒750-0093山口県.下関市彦島西山町5-1-1 ㈱グローカル・ピクチャ-ズ(担当前田) 電話/FAX083-242-5210 メ-ルnoboru@maeda.ne.jp 2011年02月08日再生回数 2924 |
![]() | 豊年斎梅坊主『出鱈目』 大道の歌い手。最大の人気者「豊年斎梅坊主(松本梅吉)」梅吉7歳の頃、父が火事を見て灰が目に入り失明し、貧民窟に暮らす事を余儀なくされた。貧乏長屋には多くの大道芸人が住んでいた事もあり、梅吉も自然にその仲間に入っていった。世は幕末から明治へと一新された頃、梅吉は秋葉原(当時は原っぱ)等の街頭で阿呆陀羅経をやって人を集めては飴を売った。一座を引き連れそろいの浴衣で三味線、太鼓でカッポレ、伊勢音頭、阿呆陀羅経、掛け合い軽口(漫才に似た二人での話芸)等を踊り歌い語った。浅草の十二階演芸場をホームとしあちこちの寄席に出演する一流芸人となった。安政元年(1854年)生まれ、昭和2年(1927年)2月14日死去。 2010年03月21日再生回数 2735 |
![]() | 【明治維新 Meiji Restoration】吉田松陰の遺訓 Words of Syouin Yoshida 山口生まれ。父は萩藩士杉百合之助。山鹿流兵学師範であった吉田家の養子となる。藩校明倫館を経て、諸国を遊学。佐久間象山のもとで砲術と蘭学を学ぶ。安政元年(1854)海外密航を企て、下田港のアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込もうとしたが、拒絶され投獄。のち萩の野山獄に移されるが、翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となる。その間松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した人材育成の場となった。安政6年(1859)、安政の大獄により江戸で刑死した。 ニコニコから転載 2009年01月12日再生回数 11594 |
![]() | 大江戸わいド第11回『黒船来航と資料萌え』 ・・・ツイニ ボツヲ ダシテシマッタ。 気を取り直して第11回。高尾先生の資料萌えのお話です。 上野・彰義隊戦争の解説はがんばって書いたよ・・・ ちなみに・・・調べていて知った豆知識。 ペリーの黒船来航は嘉永6年(1853年)。 その8年後の、万延元年(1861年)からアメリカでは「南北戦争」が勃発。 最も先に日本との外交を開いたアメリカは、日本どころではなくなってしまいました。 4年間の南北戦争の終結は1865年(慶応元年)。大量に余った中古の銃器は、日本に輸入され、その後の戊辰戦争に使われたのだとか。 (アームストロング砲なんかはその典型例だそうな。) また、日米和親条約の結ばれた嘉永七年(安政元年-1854年)は、クリミア戦争勃発の年でもあります。(1856年まで2年間) ・・・つまり、万延・文久年間とは逆に、当時はアメリカだけが、日本に目を向ける余裕があった、というわけなんだそうな。 2010年09月20日再生回数 333 |
![]() | 第11代横綱不知火光右衛門 文政8年(1825)5月、合志郡陣内村下町(現大津町下町)の原野慶助の二男に生まれました。本名を原野峰松といい、草相撲の大関で近隣に名をとどろかせていた祖父儀右衛門の血統を受けたのか、優れた体力と力とをもって草相撲でその怪力と妙手、早わざは近隣におよぶものがなかったと言います。 村の郷士坂本十郎左衛門からさそわれて、大阪に出て郷土の先輩である湊(第八代横綱不知火諾右衛門)の弟子となって修行し、嘉永2年(1849)江戸にのぼり、殿峰五郎の名で同3年11月幕下に付け出されています。 安政元年(1854)十両、同3年11月西前頭7枚目に入幕し、細川藩のお抱え力士となり、同4年1月不知火光右衛門と改名しています。以後、順調に勝ち進み、同7年2月小結で8勝1引き分け1休の成績で優勝、文久2年(1862)2月大関に昇進、同3年11月吉田司家から11人目の横綱免許を受けました。時に39歳のことでした。 176センチメートル、124キログラム、取り口はきびきびとして名人級、右を指したら盤石と言われていました。またその土俵入りは、先代(第八代横綱不知火諾右衛門)が創始した不知火型をさらに華麗にしたもので巧妙をきわめ、「白鶴の翼を張れるがごとし」の形容で華麗さはかって見ないところとされ、また大変な美男子でもあったので、その錦絵は飛ぶように売れたと言います。 その後、6年間12場所在位し、元治元年(1864)4月と10月に連続して優勝を遂げています。好敵手には、雲龍・鬼面山・陣幕(いずれも横綱を張った力士)がいました。明治2年(1869)11月場所限りで引退、幕内の在位は14年、27場所で、最高位は大関(横綱)、勝率は、7割7分3厘。引退後は、先代同様大阪に帰って頭取(年寄り)2代目不知火諾右衛門と名乗り、不知火部屋を創立して年寄りとして大阪相撲に貢献していましたが ... 2010年05月10日再生回数 5178 |
![]() | 伊豆下田と坂本龍馬.mp4 静岡県、伊豆下田と坂本龍馬の関係を集約した内容になっております。NHK大河ドラマ『龍馬伝』で盛り上がる伊豆下田『坂本龍馬飛翔之地』、『お吉と龍馬』、よあけまん、夜明け茶、SOUL BAR TOSAYA『土佐屋』(安政元年建造)で吉田松陰、坂本龍馬が訪れた建物が現在も残っている。『下田的遊戯』、などフリーペーパーから有名グルメ雑誌や特集、新聞、テレビに数多く紹介されているsoulbar『土佐屋』のカクテル『龍馬』をフューチャー!!幕末、龍馬ファンは必見の内容になっています。YOSHIHITO SAITO(ZETTON DESIGN)Produce.DJ Ryoma 2010年01月21日再生回数 1522 |
安政元年に関連した本
- 海防と災害―弘化~安政元年の社会不安 浜屋 雅軌 高文堂出版社
- 歌舞伎年表 第7巻 安政元年-明治三十一年 伊原 敏郎 岩波書店
- 信濃国麻績宿名主日記―葦沢家「歳中日記帳」嘉永五年~安政元年 (岩田書院史料叢刊 3) 岩田書院









