「朱子学」に関連した動画の一覧 |
![]() | 朱子学と幕末-9 資料・訂正・テストなどはオールラウンド日本近代史(前編)のカリキュラムから manavee.com 2010年11月26日再生回数 1506 |
![]() | 家族の絆 〜夫婦(53):朱子学:理気二元論〜 「朱子」は大学、中庸、論語、孟子という四書の注解をし、事実上宋の時代に起こった儒学を大成した中国史上最大の哲学者という位置づけだと思います。無意識、潜在意識、顕在意識は、「心」のレベルで分類していて、その場合、顕在意識から発生するエーテル体意識と肉体意識は一つのもの(粗大体意識)と考えます。「顕在意識」と「粗大体意識」の2つに分けて考えたときに、それぞれが「理」と「気」なのです。 (講演内容を元に編集:文責ユニティ・デザイン) 2011年07月21日再生回数 393 |
![]() | 家族の絆 〜夫婦(54):朱子学:窮理居敬〜 前回の続きで朱子学の2回目です。 —————————————————————- 「学問の方法:敬と格物致知」 聖人となる方法には2つの方法がある。一は居敬、二は窮理すなわち格物致知。道徳性を養い磨くことと、知的な学問研究をすすめること。主観的方法と客観的方法といってよい。 —————————————————————- 朱子という方は立派な方で、良く分かっていると思います。最初に大事なのは学問では無くて居敬の部分なんですね。現代の教育では居敬が落ちてしまって職を得るための学問になっているのが問題なのです。 野口晴哉という整体師の方がいます。あの方は立派な方で、「生命に対する礼」ということを言っているんです。命に対する礼のないものは整体をやってはいけないということ。それはそうだろうなと思います。彼の本とか奥さんの書いた日記を読んでみて生命に対する礼に完全に裏付けられている人だったことが分かります。整体法を技術として習得するのは勘違いしているんです。結局人を救うことにならないのです。野口晴哉はそいうことが良く分かっていた人で、彼の操法は神業で美しかった。それはどんな患者に対しても患者を単に対象として見ていなくて、患者の中にある命に対する敬意を持っていて、それに対して治療を施していた。 (講演内容を元に編集:文責ユニティ・デザイン) 2011年07月21日再生回数 345 |
![]() | 家族の絆 〜夫婦(52):儒学〜 今日から中国の思想の中の儒学の成立ということで、朱子学と陽明学を取り上げます。これを取り上げないと、なぜ老荘思想が儒学・儒教をぼろくそに言っているのかが分からないからです。非常に面白いのは、中国の思想はまとまりがいいのです。朱子学・陽明学という儒学は顕在意識レベル、荘子の思想は潜在意識レベル、老子の思想は無意識レベルの思想。顕在意識から無意識まで全部1セットで揃っているのが中国の思想なのです。全体像を観るのに非常に見通しがいい。 (講演内容を元に編集:文責ユニティ・デザイン) 2011年07月21日再生回数 338 |
![]() | 合気道 野中日文師範(合気会八段) 合気剣演武 S58 高鍋演武大会 野中日文(のなか ひふみ) 行動文化研究者 武道家 大森曹玄門人 鉄舟会(直心影流の剣、禅、書)会員 合気道開祖植芝盛平直伝の合気道の継承者 八段 合気道本流合気会宮崎県連盟主席師範 霊学谷神会学術顧問『礼記』の研究をライフワークの一つに、エゴを否定しない剣の視点から神道、朱子学、禅を再確認 武道行動学を発表 「礼に始まり、礼に終わる」といわれる日本武道の世界に礼の手引書が一冊も存在しないとう、ウソのような現実に愕然とし、1988年に『武道の礼儀作法』(絵は政治漫画の 針すなお)を発表 合気道二代道主に功績を認められ、推薦文を受ける インタネットにコラム「野中日文の垂直思考(武の世界からの直球曲球)を発表中(木曜日更新) 「礼剣同根」の視点から学校武道への提言を続けている <著書> 『武道の礼儀作法』(どう出版) 『武道ー―日本人の行動学』(創言社) 『朱子学概説』(明倫会) 『高鍋藩校明倫堂の教育』(明倫会) 『「バカの壁」に異議あり』(文藝書房) など なお本書は現在流通を妨害され、書店入手は困難 <出版予定> 『平成の朱子学――いま「仁義」を問う』 『人生には「正解」は、ある』 『ヘソマガリの美学』 『平成の花伝書――まず、美しく』 『窮すれば通ず(ピンチはチャンス)――いま甦る易経』 以上、出版社未定ブログ:nonaka.kuroki.mods.jp 2011年06月30日再生回数 1639 |
![]() | 合気道 野中日文師範 (合気会八段) 昭和62年 日本武道演武大会 野中日文(のなか ひふみ) 行動文化研究者 武道家 大森曹玄門人 鉄舟会(直心影流の剣、禅、書)会員 合気道開祖植芝盛平直伝の合気道の継承者 八段 合気道本流合気会宮崎県連盟主席師範 霊学谷神会学術顧問『礼記』の研究をライフワークの一つに、エゴを否定しない剣の視点から神道、朱子学、禅を再確認 武道行動学を発表 「礼に始まり、礼に終わる」といわれる日本武道の世界に礼の手引書が一冊も存在しないとう、ウソのような現実に愕然とし、1988年に『武道の礼儀作法』(絵は政治漫画の 針すなお)を発表 合気道二代道主に功績を認められ、推薦文を受ける インタネットにコラム「野中日文の垂直思考(武の世界からの直球曲球)を発表中(木曜日更新) 「礼剣同根」の視点から学校武道への提言を続けている <著書> 『武道の礼儀作法』(どう出版) 『武道ー―日本人の行動学』(創言社) 『朱子学概説』(明倫会) 『高鍋藩校明倫堂の教育』(明倫会) 『「バカの壁」に異議あり』(文藝書房) など なお本書は現在流通を妨害され、書店入手は困難 <出版予定> 『平成の朱子学――いま「仁義」を問う』 『人生には「正解」は、ある』 『ヘソマガリの美学』 『平成の花伝書――まず、美しく』 『窮すれば通ず(ピンチはチャンス)――いま甦る易経』 以上、出版社未定ブログ:nonaka.kuroki.mods.jp 2011年06月30日再生回数 1626 |
![]() | 湯武革命論山崎闇斎崎門学 山崎闇斎は江戸時代の儒者、神道家であり、朱子学では「崎門学」、神道では「垂加神道」を開きました。寛文五年(一六六五年)、幕閣・会津藩主保科正之の賓師に迎えられ、殉死の禁止など幕藩政治にも影響を及ぼしました。弟子では浅見絅斎が著名であり、更にその弟子の若林強斎や、土佐南学の谷秦山らがその継承者として知られています。更に幕末では、橋本景岳、梅田雲浜、横井小楠ら、明治時代では西南戦争の谷干城将軍(谷秦山の子孫)が知られています。闇斎は心神(人の心)は天神からの賜物であると考え祀りました。現在は下御霊神社内の猿田彦社に配祀されています。「湯武革命論」は湯武放伐を程子、朱子の論を基に考察し、革命を否定した重要な書です。これが後世の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えたものの一つになりました。 2009年07月05日再生回数 1248 |
![]() | 国宝・閑谷学校 紅葉 黄葉亭 国指定特別史跡 「閑谷学校」備前市閑谷 紅葉1668年(寛文8年)~1702年(元禄15年)完成特別史跡石塀内の各建造物、構造物のほか椿山、石門、津田永忠宅跡、 黄葉亭(こうようてい)、?池(はんち)、などを含む学校全域(総面積38829㎡)が国の特別史跡に指定されている。 閑谷学校 入学者・学科閑谷学校は庶民の子弟、藩士の子弟はもちろん、他藩から入学を希望する者も受け入れた。 「学派は、純粋朱説を守る」として、藩学である朱子学を採用し、これを教えた。 学科は、孝経・小学・四書・五経から、左伝・国語・史記・漢書など庶民の子弟は1年で習字・素読などの素養を学ばせて村に帰し農業に従事させた。 彼らは村人に読・書を教えて、岡山藩主・池田光政の「国中文字のわからぬ者なきよう」との方針にこたえた。 2010年04月04日再生回数 261 |
![]() | Taiheiki Takauji and Hino Suketomo 日野 資朝(ひの すけとも、1290年(正応3年) - 1332年6月25日(元弘2年/正慶元年6月2日))は、鎌倉時代後期の公卿である。父は日野俊光。子は日野邦光(阿新丸)。従三位・権中納言。最初は、持明院統の花園院の院司を務めていたが、1321年に後宇多院に代わり親政をはじめた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。『花園院宸記』元亨2年11月6日条に俊光がこのことで資朝を非難して義絶したことが記されている。後醍醐とともに宋学(朱子学)を学び、後醍醐の討幕計画では中枢にいた。1324年に計画が北条氏が朝廷監視のために設置していた京都の六波羅探題に察知された正中の変では日野俊基らとともに捕縛されて鎌倉へ送られ、佐渡島へ流罪となる。1331年に後醍醐老臣の吉田定房の密告でふたたび討幕計画が露見した元弘の変が起ると、資朝は佐渡で処刑される。 資朝が後醍醐天皇に登用される話は、吉田兼好の『徒然草』に記されている。また古典『太平記』には資朝の子の阿新丸(くまわかまる)が敵討ちを遂げるエピソードも記されている。 ちなみに、兄の資名は京都を追われた光厳天皇を最後まで守護した忠臣、弟の賢俊は光厳上皇の院宣を足利尊氏に届けるなど持明院統の為に尽くしたことで知られ、兄弟で敵味方で分かれている。 2011年01月15日再生回数 2809 |
![]() | 大日と足利学校 施設】 日本最古の学校跡。江戸時代から残る孔子廟、大正時代完成の図書館、平成になった復元された方丈・庫裏など。 【見学時間】 60分 【コメント】 日本最古の学校として国指定の史跡になっている著名なスポットです。 創建については明らかでないようで、現在では、室町時代の初期に足利尊氏が創建、上杉憲実が再興した可能性が高いとされているようです。 その後もたびたび戦乱に巻き込まれ荒廃しましたが、戦国時代末期に後北条氏が全面的に保護し、隆盛しました。 専門コースは易学中心だったので、江戸時代になると朱子学の流行によりやや寂れ、明治5年に校務を廃しましたが、現在でも貴重な文献類が残存しており、一部は国宝にも指定され、敷地内の足利学校遺跡図書館に残っています。 現存する施設としては、江戸時代の寛文8年(1668)の再建という孔子と小野篁の木造を安置する孔子廟があります。 最近まで敷地の東半分は小学校になっていたようですが、小学校を移転し、平成2年に方丈・庫裏などの建物・庭園が復元され(江戸時代のレイアウトにそって)、一般公開されています。 入園券が入学証になっているのが凝ったところです。 復元された建物も遺構に忠実につくってあるようでケバケバしさがなく、良いシャッタースポットになっています。 案内の女性が着物着て迎えてくれます 2009年11月16日再生回数 742 |









