「朱子学者」に関連した動画の一覧 |
![]() | 家族の絆 〜夫婦(53):朱子学:理気二元論〜 「朱子」は大学、中庸、論語、孟子という四書の注解をし、事実上宋の時代に起こった儒学を大成した中国史上最大の哲学者という位置づけだと思います。無意識、潜在意識、顕在意識は、「心」のレベルで分類していて、その場合、顕在意識から発生するエーテル体意識と肉体意識は一つのもの(粗大体意識)と考えます。「顕在意識」と「粗大体意識」の2つに分けて考えたときに、それぞれが「理」と「気」なのです。 (講演内容を元に編集:文責ユニティ・デザイン) 2011年07月21日再生回数 393 |
![]() | 湯武革命論山崎闇斎崎門学 山崎闇斎は江戸時代の儒者、神道家であり、朱子学では「崎門学」、神道では「垂加神道」を開きました。寛文五年(一六六五年)、幕閣・会津藩主保科正之の賓師に迎えられ、殉死の禁止など幕藩政治にも影響を及ぼしました。弟子では浅見絅斎が著名であり、更にその弟子の若林強斎や、土佐南学の谷秦山らがその継承者として知られています。更に幕末では、橋本景岳、梅田雲浜、横井小楠ら、明治時代では西南戦争の谷干城将軍(谷秦山の子孫)が知られています。闇斎は心神(人の心)は天神からの賜物であると考え祀りました。現在は下御霊神社内の猿田彦社に配祀されています。「湯武革命論」は湯武放伐を程子、朱子の論を基に考察し、革命を否定した重要な書です。これが後世の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えたものの一つになりました。 2009年07月05日再生回数 1248 |
![]() | 山鹿素行中朝事実 山鹿素行は、江戸時代前期の儒学者・兵学の大家。中朝事実は、山鹿素行が寛文9年(1669年)に記した尊王思想の歴史書。全2巻、付録1巻。江戸幕府によって朱子学が奨励され、儒学が偏重され、中国を過大評価し我が國を過小にみる風潮が蔓延していた。これに対し反論したのが素行の「中朝事実」であった。素行の思想はその後、幕末の吉田松陰(山鹿流兵学)に影響を与え、更に松蔭と素行から乃木希典大将は影響を与えており、後世へ大きな影響を及ぼした。 2009年05月04日再生回数 4877 |
![]() | 拘幽操山崎闇斎崎門学 山崎闇斎は江戸時代の儒者、神道家であり、朱子学では「崎門学」、神道では「垂加神道」を開きました。寛文五年(一六六五年)、幕閣・会津藩主保科正之の賓師に迎えられ、殉死の禁止など幕藩政治にも影響を及ぼしました。弟子では浅見絅斎が著名であり、更にその弟子の若林強斎や、土佐南学の谷秦山らがその継承者として知られています。更に幕末では、橋本景岳、梅田雲浜、横井小楠ら、明治時代では西南戦争の谷干城将軍(谷秦山の子孫)が知られています。闇斎は心神(人の心)は天神からの賜物であると考え祀りました。現在は下御霊神社内の猿田彦社に配祀されています。「拘幽操」は周の文王の幽閉を題材にした韓退之の詩ですが、これを闇斎は考察し、忠義のあるべき姿としました。 2009年07月05日再生回数 910 |
![]() | 合気道 野中日文師範(合気会八段) 合気剣演武 S58 高鍋演武大会 野中日文(のなか ひふみ) 行動文化研究者 武道家 大森曹玄門人 鉄舟会(直心影流の剣、禅、書)会員 合気道開祖植芝盛平直伝の合気道の継承者 八段 合気道本流合気会宮崎県連盟主席師範 霊学谷神会学術顧問『礼記』の研究をライフワークの一つに、エゴを否定しない剣の視点から神道、朱子学、禅を再確認 武道行動学を発表 「礼に始まり、礼に終わる」といわれる日本武道の世界に礼の手引書が一冊も存在しないとう、ウソのような現実に愕然とし、1988年に『武道の礼儀作法』(絵は政治漫画の 針すなお)を発表 合気道二代道主に功績を認められ、推薦文を受ける インタネットにコラム「野中日文の垂直思考(武の世界からの直球曲球)を発表中(木曜日更新) 「礼剣同根」の視点から学校武道への提言を続けている <著書> 『武道の礼儀作法』(どう出版) 『武道ー―日本人の行動学』(創言社) 『朱子学概説』(明倫会) 『高鍋藩校明倫堂の教育』(明倫会) 『「バカの壁」に異議あり』(文藝書房) など なお本書は現在流通を妨害され、書店入手は困難 <出版予定> 『平成の朱子学――いま「仁義」を問う』 『人生には「正解」は、ある』 『ヘソマガリの美学』 『平成の花伝書――まず、美しく』 『窮すれば通ず(ピンチはチャンス)――いま甦る易経』 以上、出版社未定ブログ:nonaka.kuroki.mods.jp 2011年06月30日再生回数 1639 |
![]() | 国宝・閑谷学校 紅葉 黄葉亭 国指定特別史跡 「閑谷学校」備前市閑谷 紅葉1668年(寛文8年)~1702年(元禄15年)完成特別史跡石塀内の各建造物、構造物のほか椿山、石門、津田永忠宅跡、 黄葉亭(こうようてい)、?池(はんち)、などを含む学校全域(総面積38829㎡)が国の特別史跡に指定されている。 閑谷学校 入学者・学科閑谷学校は庶民の子弟、藩士の子弟はもちろん、他藩から入学を希望する者も受け入れた。 「学派は、純粋朱説を守る」として、藩学である朱子学を採用し、これを教えた。 学科は、孝経・小学・四書・五経から、左伝・国語・史記・漢書など庶民の子弟は1年で習字・素読などの素養を学ばせて村に帰し農業に従事させた。 彼らは村人に読・書を教えて、岡山藩主・池田光政の「国中文字のわからぬ者なきよう」との方針にこたえた。 2010年04月04日再生回数 261 |
![]() | 合気道 野中日文師範 (合気会八段) 昭和62年 日本武道演武大会 野中日文(のなか ひふみ) 行動文化研究者 武道家 大森曹玄門人 鉄舟会(直心影流の剣、禅、書)会員 合気道開祖植芝盛平直伝の合気道の継承者 八段 合気道本流合気会宮崎県連盟主席師範 霊学谷神会学術顧問『礼記』の研究をライフワークの一つに、エゴを否定しない剣の視点から神道、朱子学、禅を再確認 武道行動学を発表 「礼に始まり、礼に終わる」といわれる日本武道の世界に礼の手引書が一冊も存在しないとう、ウソのような現実に愕然とし、1988年に『武道の礼儀作法』(絵は政治漫画の 針すなお)を発表 合気道二代道主に功績を認められ、推薦文を受ける インタネットにコラム「野中日文の垂直思考(武の世界からの直球曲球)を発表中(木曜日更新) 「礼剣同根」の視点から学校武道への提言を続けている <著書> 『武道の礼儀作法』(どう出版) 『武道ー―日本人の行動学』(創言社) 『朱子学概説』(明倫会) 『高鍋藩校明倫堂の教育』(明倫会) 『「バカの壁」に異議あり』(文藝書房) など なお本書は現在流通を妨害され、書店入手は困難 <出版予定> 『平成の朱子学――いま「仁義」を問う』 『人生には「正解」は、ある』 『ヘソマガリの美学』 『平成の花伝書――まず、美しく』 『窮すれば通ず(ピンチはチャンス)――いま甦る易経』 以上、出版社未定ブログ:nonaka.kuroki.mods.jp 2011年06月30日再生回数 1626 |
![]() | 中江藤樹 1608~1648]江戸前期の儒学者。近江(おうみ)の人。名は原。字(あざな)は惟命。日本陽明学派の祖。初め朱子学を修め、のち、陽明学を首唱して近江聖人とよばれた。熊沢蕃山・淵岡山(ふちこうざん)はその高弟。著「鑑草」「翁問答」など。 2008年01月03日再生回数 3187 |
![]() | 葵と楓034:三味線ブギウギ &恋のフーガ 日本音楽豆知識034 徳川家康は,慶長8年(1603),征夷大将軍となり,徳川政権をスタートさせた。二年後,秀忠に将軍職を譲ると,三代目となる孫の家光に帝王学を授けている。大坂の二度の陣(1614-15)を経て,豊臣家は滅亡する。ここに戦国の世は終結し,元和堰武(げんなえんぶ)と呼ばれる平和な時代が到来する。島原の乱を鎮圧して,徳川の権威は絶大なものとなる。幕藩体制を支える思想として,儒教の一派朱子学を採用する。林羅山をその責任者とする。将軍綱吉のとき,神田湯島に昌平こうが移転し,林家が大学頭となる。識字率が上昇し,読書階層が拡大していく。町人読者のための作品を書くものが現れ,この代表が「井原西鶴」である。井原西鶴の「好色一代男」以降の作品は,浮世草子と呼ばれる。元禄期,大坂を中心に流行する。民衆生活の幅広い主題を扱っている。井原西鶴がきわだって有名であるが,江島其磧という人が,残したものも有名である。元禄12年,役者評判記「役者口三味線」を八文字屋から刊行。その後,其磧は,浮世草子に進出。「けいせい色三味線」「傾城連三味線」「風流曲三味線」などの作品がある。西鶴の関心が,人の心の奥を指向していたが,其磧は,これとはおもむきのちがう作品を残している。さかのぼること,本土の人間が,三味線を演奏した最古の記録は,天正8年(1580)「御湯殿の上の日記」の中に出てくる。「山しろ」という河原者が,京都御所に呼ばれて,演奏している。盲人の琵琶法師・ごぜに続いて,初期の三味線は,遊女による遊女歌舞伎の中で良く見られるようになる。三味線は,やがて浄瑠璃と結びつく。遊里やら,料亭でも三味線が人気になる。三味線を職業的に演奏する女性は,踊子・芸妓・芸者などと呼ばれるようになっていく。一方,アマチュアの演奏者という ... 2011年08月01日再生回数 514 |
![]() | Genshiroku Extract (1) Pics from the following sites and others. Very Thanks! skabudo.heavy.jp/201109/kibishisa a.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%B8%80%E6%96%8E 佐藤 一斎(さとう いっさい、1772年11月14日(安永元年10月20日)- 1859年10月19日(安政6年9月24日))は、美濃国岩村藩出身の著名な儒学者。諱は担。通称は捨蔵。字を大道。号は一斎のほか、愛日楼、老吾軒。 By Wikipedia 1772年11月(安永元年10月)、岩村藩家老佐藤信由の次男として、江戸浜町(中央区日本橋浜町)の藩邸下屋敷内で生まれた。1790年(寛政2年) より岩村藩に仕えた。十二、三歳の頃井上四明の門に入り、長じて大阪に遊学、中井竹山に学んだ。 1793年(寛政5年)に、藩主松平乗薀(のりもり)の三男乗衡(のりひら)が、公儀儒官である林家に養子として迎えられ、当主(大学頭)として林述斎と名乗った。一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所に入門する。1805年(文化2年)には塾長に就き、述斎と共に多くの門弟の指導に当たった。 儒学の大成者として公に認められ、1841年(天保12年)に述斎が没したため、公儀の学問所昌平黌(しょうへいこう)の儒官(総長)を命じられ、広く崇められた。当然朱子学が専門だが、その広い見識は陽明学まで及び、学問仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王』と呼ばれた。門下生は3000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠等、いずれも幕末に活躍した人材たちがいる。同門の友人には松崎慊堂がいる。将軍侍医の杉本宗春院とは極めて親しかった。 また、一斎は常に時計を持ち、時間厳守を第一とする厳格な性格の持ち主であった。だが「蛮社の獄」では、無実の罪で窮地に落ちいった渡辺崋山を擁護する毅然とした対応を取らなかったので、後々(特に明治 ... 2012年05月10日再生回数 24 |









