「桑名藩」に関連した動画の一覧 |
![]() | アキーラさんドライブ!国道一号線・三重・桑名市街1,Kuwana-city.Mie,Japan 国道1号を北上し名古屋方面に進んでいた時に、三重の桑名に差し掛かった。幕末の歴史が好きな自分であるが、ここ桑名は昔、桑名藩があり、京都守護代を務めた会津の松平容保の弟が治めていた藩である。薩摩、長州と会津と共に交戦した藩である。それを思いだし、お城を訪れてみた。城は新政府軍により取り壊され、残っているのは石垣とお堀くらいであるが、今は九華公園として桜の名所として市民に親しまれている。規模は大きくないが、のんびりとしており、くつろぐ事が出来る。 慶長6年(1601年)1月1日、上総大多喜藩より家康譜代の重臣・本多忠勝が10万石で入ったことにより、桑名藩が立藩する。忠勝は徳川四天王の1人としてその武名を天下に轟かせた猛者であり、武田信玄や信長らからも賞賛された武将で、桑名藩の歴代藩主の中で最も有名な人物である。忠勝は関ヶ原では本戦に参加して武功を挙げるなど、武勇ばかりが際立って目立つが、藩政では大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行ない、実質的に桑名藩政を確立した名君でもあった。慶長14年(1609年)、忠勝の嫡男・本多忠政が第2代藩主となり、大坂の陣にも参加して武功を挙げたため、西国の抑えとして元和3年(1617年)7月14日に播磨姫路藩に移封された。 鳥羽・伏見の戦いでの戦闘を描いた絵。和装と槍で突撃する桑名藩の歩兵が描かれている。左奥の集団も「桑名兵」とある。 本多忠勝が前期の桑名藩主として有名なら、後期の藩主として最も有名なのが、幕末動乱の時期に第4代藩主となった松平定敬である。定敬は会津藩主・松平容保や尾張藩主・徳川慶勝らの実弟であり、佐幕派として行動した人物である。一説では坂本龍馬暗殺事件は定敬が指示したものともいわれているほど、幕末期では重きを成した人物で ... 2012年04月03日再生回数 47 |
![]() | アキーラさん!三重・桑名城址(九華公園),Kuwana-castle(Kyuka-park)Mie,Japan 国道1号を北上し名古屋方面に進んでいた時に、三重の桑名に差し掛かった。幕末の歴史が好きな自分であるが、ここ桑名は昔、桑名藩があり、京都守護代を務めた会津の松平容保の弟が治めていた藩である。薩摩、長州と会津と共に交戦した藩である。それを思いだし、お城を訪れてみた。城は新政府軍により取り壊され、残っているのは石垣とお堀くらいであるが、今は九華公園として桜の名所として市民に親しまれている。規模は大きくないが、のんびりとしており、くつろぐ事が出来る。 慶長6年(1601年)1月1日、上総大多喜藩より家康譜代の重臣・本多忠勝が10万石で入ったことにより、桑名藩が立藩する。忠勝は徳川四天王の1人としてその武名を天下に轟かせた猛者であり、武田信玄や信長らからも賞賛された武将で、桑名藩の歴代藩主の中で最も有名な人物である。忠勝は関ヶ原では本戦に参加して武功を挙げるなど、武勇ばかりが際立って目立つが、藩政では大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行ない、実質的に桑名藩政を確立した名君でもあった。慶長14年(1609年)、忠勝の嫡男・本多忠政が第2代藩主となり、大坂の陣にも参加して武功を挙げたため、西国の抑えとして元和3年(1617年)7月14日に播磨姫路藩に移封された。 鳥羽・伏見の戦いでの戦闘を描いた絵。和装と槍で突撃する桑名藩の歩兵が描かれている。左奥の集団も「桑名兵」とある。 本多忠勝が前期の桑名藩主として有名なら、後期の藩主として最も有名なのが、幕末動乱の時期に第4代藩主となった松平定敬である。定敬は会津藩主・松平容保や尾張藩主・徳川慶勝らの実弟であり、佐幕派として行動した人物である。一説では坂本龍馬暗殺事件は定敬が指示したものともいわれているほど、幕末期では重きを成した人物で ... 2012年04月03日再生回数 28 |
![]() | 会津蚕養國神社2012年4月28日 会津藩主・松平容敬公が 文政2年の西暦1819年に初代藩主・保科正之公の創立した社殿を再営され・・・地方民は毎年蚕の終わる時に繭玉 (まゆだま)を奉納し、また綿の初穂を伝えるのを例とされた。 ※会津戦争・・・戊辰戦争の時には戸ノ口原での合戦に敗れた報に会津藩の兵・桑名藩の雷神隊・神風隊・致人隊がこの周辺地の防衛に就いた地に御座います。 蚕養國祠に就いて守備にあった、会津藩兵と桑名藩の兵は この地にて攻め寄る西軍と激戦・・・この日、会津藩国産奉行であった河原善左衛門と桑名藩 原八四朗、同上崎且馬 戦死されたちにございます。この蚕養神社はその時の・・・会津戦争 戊辰戦争時の激戦にも奇しくも損傷は免れ・・・その後、補修等をされて現代に残されているもの。 境内には、末社五社と名木 「峰張桜」 石部少将道秀と堂家左京大夫憲照が 社殿を草創された際 植えられた桜と伝えられる桜が会津五桜の一つに数えるもの・・・。 akabekojumbo.web.fc2.com 2012年04月29日再生回数 47 |
![]() | 尺八本曲shakuhachi Zen music 明暗流手向Tamuke shakuhachi honkyoku 明暗流「手向」海童道曲手向の原曲。高橋空山師が伊勢白子で伝承者より聞き取り採譜したものと聞く。復元演奏。 留場証文の切畑村は今の菰野大安町山麓の村、普済寺の出先は桑名藩伝馬町にもあつた。 地図絵は絵馬に書かれた伊勢街道沿の勢州打越村の京都明暗寺末寺「普済寺」。「手向」伝承の虚無僧寺Japanese traditional Bamboo Flute 伝承 西園流ー明暗対山派(Myoan) 2011年03月24日再生回数 2527 |
![]() | ふるさと紹介~藤田 宣和 さん 安行寺の鐘つき堂~ ~安行寺の鐘つき堂~語り部 藤田宣和今回は、北勢町中山にある、安行寺の鐘つき堂をご紹介致します。 文政八年(一八二五年)二月に書かれた「桑名城絵図」には、本丸をはじめ、二の丸や三の丸の御殿、それを取り囲む多くの門が描かれており、桑名藩が栄えた当時の様子をうかがう事が出来ます。 明治の初めまで、桑名城の本丸と三の丸御殿との間にあった門が、安行寺に移築され、現在、鐘つき堂として使われています。 この移築された門は、唐破風門と呼ばれていたもので、当時桑名城にあった数々の門の中でも、一つしかない貴重なものです。 門には、当時の桑名城主、松平家の家紋、「梅鉢の紋」が刻まれています。最近行われた修復工事で見つかりました木札から、明治九年(一八七六年)に移築された事が分かりますが、残念ながら唐破風門が造られた年代は、はっきり分かっていません。 安行寺には、もう一つ大切なものがあります。一七九一年に造られた、屋根上の鬼瓦です。歴史がうかがえ貴重なものと言えます。 この鐘つき堂を、桑名城の歴史などを知る手掛かりとして頂き、これからも大切に残して行きたいと思います。皆さんも、是非ご覧下さい。 2007年06月24日再生回数 972 |
![]() | ふるさと紹介~武藤 佳子 さん 行順寺 報恩水道~ ~行順寺 報恩水道~語り部 武藤佳子今回は、蓮如上人ゆかりのお寺、北勢町南中津原の行順寺に語り継がれている、報恩水道のお話をご紹介致します。 今からおよそ五百六十年前、蓮如上人が今の滋賀県から岐阜県を経て、布教のため北国に向かう際、多度山系の一つである蓮花谷を越えて行かれました。その時、蓮如上人は、行順寺に四日間逗留し、教えを広めて行かれました。それ以来、行順寺では、毎年四月下旬の土日に、蓮如忌ご開帳がつとめられています。蓮如上人がむしろの上で書かれたと言う「南無阿弥陀仏」の六字の名号などの宝物が公開され、多くの人々が参詣します。 さて、この行順寺には江戸時代後期から語り継がれている、心温まるお話があります。 ある日、罪を犯して桑名藩から追われていた男が行順寺に駆け込んで来ました。住職は、この男に身元を尋ねる事なく食事や寝床を与え、寺男として暮らさせました。男は住職のお供で外出した際、「ここに水が引けたら、沢山の水田が作れるのにのう。」と願う村人の話を聞きました。男は、次の日から夜になると誰にも何も言わず、一人出かけるようになりました。それから三年の月日が経ったある日、なんと村人があれほど願っていた土地に、水がなみなみと流れていたのです。村人は、驚きの声を上げ喜びました。そうです、男は、岩山にまんぼを掘り、延べ百間余りの地下水道を村人のために造り上げたのです。その後、男は誰にも告げることなく、どこかへ去って行きました。それは、お寺に駆け込んでから、千日目のことでした。 仏思に感謝を込め、村人のためにまんぼを造った男のやさしさは、今なお、私達に人としての温かい感動を呼び起こしてくれます。 2007年06月23日再生回数 899 |
![]() | ふるさと紹介~伊藤 忠 さん 六把野井水~ ~六把野井水~語り部 伊藤 忠今回は、一六三五年に完成した六把野井水を紹介致します。 今から三百七十年ほど前に、ここ麻生神社より水を水下十三か村に送ったと、伝えられております。上笠田村の大庄屋二井家の呼びかけにより、桑名藩の最初の土木工事として、六把野井水の工事が始まりました。 萬笑院の中興の祖、文華和尚のご尽力もあり、約三十五年の歳月を経て、工事は難工事でしたが、みんなが力を合わせて完了しております。 三百七十年たった現在でも、二百六十町歩の田んぼに水を送り続けている、この六把野井水の魅力を、みなさんと再発見したいと思います。また、ウォーキングなども行っていますので参加して下さい。 2007年07月05日再生回数 427 |
![]() | ふるさと紹介~渡部 勇 さん 刻限日影石~ ~刻限日影石~語り部 渡部 勇今回は、水の争いをなくした刻限日影石を紹介します。 この溜池は、古くからあり野魔池と言われ、この水を四か村が使っていました。 田畑の開発に伴い水が不足してくるのと、 西側を流れている、明智川の水を直接取り入れた為、度々決壊し修理をしました。 寛政十一年(一七九九年)、笠田新田と宇野と水の争いになり、宇野村の文治三十五歳が溜池付近で亡くなりました。それを受けて、発案者大泉新田入庄屋、懸野松右衛門、仲を取り持った羽津巴藤谷傳之助が桑名藩へ刻限日影石建立申請し、許可され立てられました。 朝はお寺の鐘により、夕方は太陽の光によって、その影が刻限日影石の三日月石にかかった折りに、水を切り替えします。 この碑が出来た為、大泉新田、笠田新田の争いがなくなりました。 現在も、笠田新田、大泉新田より一人ずつ水番が出て、公平に水を配分しています。 2007年06月24日再生回数 258 |
![]() | 照源寺 桜門の前には、史蹟松平定綱及び一統之墓所[県史跡]と記された標柱があります。 本堂の南側の石段を上がったところに、藩主松平家の霊廟があります。18世紀の終り頃、寛政の改革を行った松平定信[楽翁]の遺髪などを収める墓や、藩祖定綱の墓など、26基が並んでいます。大名の墓所が完全な形で残っている点で貴重です。定綱の墓は、左側の石段のすぐ奥のところにあります。石造の鳥居を前にして、石の門と石垣で囲まれた中に3基並んでいる中央のもので、両側の墓石は、殉死者のものです。 また、境内にはクロマツの巨樹「夫婦マツ[別名/連立のマツ]」等多数の文化財や金龍桜があります。 照源寺の南側の道から、西にむかい桑名市民病院の傍らを過ぎて400mほどのあたりに、高塚山古墳(タカツカヤマ)があります。前方部・後円部ともに破損の痕がありますが、桑名で最大の前期前方後円墳である。標高88mで、桑名市はもちろん、伊勢湾・揖斐川などが見晴らせる場所にあります。円筒埴輪の破片が、10数個発見されています。 2010年03月29日再生回数 192 |
![]() | 原田芳雄 / 横浜ホンキートンク・ブルース NEW YEAR ROCK FESTIVAL 1993-1994 2011年05月23日再生回数 35174 |
桑名藩に関連した本
- 桑名藩 (シリーズ藩物語) 郡 義武 現代書館
- 桑名藩戊辰戦記 郡 義武 新人物往来社
- 幕末転勤伝―桑名藩・勘定人渡部勝之助の日記 本間 寛治 エフエー出版









