「正妙寺」に関連した動画の一覧 |
![]() | 西野正妙寺 2011年09月26日再生回数 88 |
![]() | 鎌倉古寺社百選ー浄妙寺裏の神社 浄妙寺(鎌倉市浄明寺3) ―交通は横須賀線鎌倉駅東口から京急バススハイランド循環で10分、浄明寺下車、徒歩1分 正式名称は稲荷山浄妙禅寺で、鎌倉五山第五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古利である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。 開山は退耕行勇律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。寺名を改称したのは正嘉年間(1257-59)とみられる。歴代の住持には約翁徳倹・高峰顕日(やくおうとくけんこうほうけんにち)、竺仙梵俸・天岸慧広(じくせんほんせんてんがんえこう)など名僧が多い。 五山にふさわしく、最盛期には二十三院の塔頭を有した大寺院であったが、火災で往時の伽藍はすべて失われた。現在は本堂の銅葺きの大屋根が、わずかにその面影を伝えている。 中興開基は足利尊氏の父貞氏で、没後当寺に葬られた。至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭二十三院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡等で伽藍を形成している。境内は国指定史跡となっている。 行勇律師(1163~1241)は相模国酒勾(小田原市)の人で初名は玄信、荘厳房と称した。幼くして薙髪出家し、真言密教を学んだ。養和元年(1181)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺・大慈寺の別当にも任じ、文治四年(1188)足利義兼が当山を建立すると開山に迎えられた。 正治元年(1199)栄西が鎌倉に下向すると、その門に入って臨済禅を修め、栄西没後は寿福寺二世に任じている。頼朝や政子に信任されて戒を授ける一方、「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望され、実朝もあつく帰依した ... 2011年11月20日再生回数 29 |
![]() | 鎌倉古寺百選ー浄妙寺の茶室、庭園⑥ 浄妙寺(鎌倉市浄明寺3) ―交通は横須賀線鎌倉駅東口から京急バススハイランド循環で10分、浄明寺下車、徒歩1分 正式名称は稲荷山浄妙禅寺で、鎌倉五山第五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古利である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。 開山は退耕行勇律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。寺名を改称したのは正嘉年間(1257-59)とみられる。歴代の住持には約翁徳倹・高峰顕日(やくおうとくけんこうほうけんにち)、竺仙梵俸・天岸慧広(じくせんほんせんてんがんえこう)など名僧が多い。 五山にふさわしく、最盛期には二十三院の塔頭を有した大寺院であったが、火災で往時の伽藍はすべて失われた。現在は本堂の銅葺きの大屋根が、わずかにその面影を伝えている。 中興開基は足利尊氏の父貞氏で、没後当寺に葬られた。至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭二十三院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡等で伽藍を形成している。境内は国指定史跡となっている。 行勇律師(1163~1241)は相模国酒勾(小田原市)の人で初名は玄信、荘厳房と称した。幼くして薙髪出家し、真言密教を学んだ。養和元年(1181)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺・大慈寺の別当にも任じ、文治四年(1188)足利義兼が当山を建立すると開山に迎えられた。 正治元年(1199)栄西が鎌倉に下向すると、その門に入って臨済禅を修め、栄西没後は寿福寺二世に任じている。頼朝や政子に信任されて戒を授ける一方、「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望され、実朝もあつく帰依した ... 2011年11月20日再生回数 93 |
![]() | 鎌倉古寺百選ー浄妙寺の茶室、石庭⑤ 浄妙寺(鎌倉市浄明寺3) ―交通は横須賀線鎌倉駅東口から京急バススハイランド循環で10分、浄明寺下車、徒歩1分 正式名称は稲荷山浄妙禅寺で、鎌倉五山第五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古利である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。 開山は退耕行勇律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。寺名を改称したのは正嘉年間(1257-59)とみられる。歴代の住持には約翁徳倹・高峰顕日(やくおうとくけんこうほうけんにち)、竺仙梵俸・天岸慧広(じくせんほんせんてんがんえこう)など名僧が多い。 五山にふさわしく、最盛期には二十三院の塔頭を有した大寺院であったが、火災で往時の伽藍はすべて失われた。現在は本堂の銅葺きの大屋根が、わずかにその面影を伝えている。 中興開基は足利尊氏の父貞氏で、没後当寺に葬られた。至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭二十三院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡等で伽藍を形成している。境内は国指定史跡となっている。 行勇律師(1163~1241)は相模国酒勾(小田原市)の人で初名は玄信、荘厳房と称した。幼くして薙髪出家し、真言密教を学んだ。養和元年(1181)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺・大慈寺の別当にも任じ、文治四年(1188)足利義兼が当山を建立すると開山に迎えられた。 正治元年(1199)栄西が鎌倉に下向すると、その門に入って臨済禅を修め、栄西没後は寿福寺二世に任じている。頼朝や政子に信任されて戒を授ける一方、「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望され、実朝もあつく帰依した ... 2011年11月20日再生回数 51 |
![]() | 鎌倉古寺百選ー鎌倉五山の1つ浄妙寺の山門へ向かう① 浄妙寺(鎌倉市浄明寺3) ―交通は横須賀線鎌倉駅東口から京急バススハイランド循環で10分、浄明寺下車、徒歩1分 正式名称は稲荷山浄妙禅寺で、鎌倉五山第五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古利である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。 開山は退耕行勇律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。寺名を改称したのは正嘉年間(1257-59)とみられる。歴代の住持には約翁徳倹・高峰顕日(やくおうとくけんこうほうけんにち)、竺仙梵俸・天岸慧広(じくせんほんせんてんがんえこう)など名僧が多い。 五山にふさわしく、最盛期には二十三院の塔頭を有した大寺院であったが、火災で往時の伽藍はすべて失われた。現在は本堂の銅葺きの大屋根が、わずかにその面影を伝えている。 中興開基は足利尊氏の父貞氏で、没後当寺に葬られた。至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭二十三院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡等で伽藍を形成している。境内は国指定史跡となっている。 行勇律師(1163~1241)は相模国酒勾(小田原市)の人で初名は玄信、荘厳房と称した。幼くして薙髪出家し、真言密教を学んだ。養和元年(1181)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺・大慈寺の別当にも任じ、文治四年(1188)足利義兼が当山を建立すると開山に迎えられた。 正治元年(1199)栄西が鎌倉に下向すると、その門に入って臨済禅を修め、栄西没後は寿福寺二世に任じている。頼朝や政子に信任されて戒を授ける一方、「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望され、実朝もあつく帰依した ... 2011年11月20日再生回数 43 |
![]() | 鎌倉古寺百選ー鎌倉5山の浄妙寺に入る、庭園が風雅である② 浄妙寺(鎌倉市浄明寺3) ―交通は横須賀線鎌倉駅東口から京急バススハイランド循環で10分、浄明寺下車、徒歩1分 正式名称は稲荷山浄妙禅寺で、鎌倉五山第五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古利である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。 開山は退耕行勇律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。寺名を改称したのは正嘉年間(1257-59)とみられる。歴代の住持には約翁徳倹・高峰顕日(やくおうとくけんこうほうけんにち)、竺仙梵俸・天岸慧広(じくせんほんせんてんがんえこう)など名僧が多い。 五山にふさわしく、最盛期には二十三院の塔頭を有した大寺院であったが、火災で往時の伽藍はすべて失われた。現在は本堂の銅葺きの大屋根が、わずかにその面影を伝えている。 中興開基は足利尊氏の父貞氏で、没後当寺に葬られた。至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭二十三院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡等で伽藍を形成している。境内は国指定史跡となっている。 行勇律師(1163~1241)は相模国酒勾(小田原市)の人で初名は玄信、荘厳房と称した。幼くして薙髪出家し、真言密教を学んだ。養和元年(1181)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺・大慈寺の別当にも任じ、文治四年(1188)足利義兼が当山を建立すると開山に迎えられた。 正治元年(1199)栄西が鎌倉に下向すると、その門に入って臨済禅を修め、栄西没後は寿福寺二世に任じている。頼朝や政子に信任されて戒を授ける一方、「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望され、実朝もあつく帰依した ... 2011年11月20日再生回数 23 |
![]() | 鎌倉古寺百選ー浄妙寺の草むらでカエル鳴く③ 浄妙寺(鎌倉市浄明寺3) ―交通は横須賀線鎌倉駅東口から京急バススハイランド循環で10分、浄明寺下車、徒歩1分 正式名称は稲荷山浄妙禅寺で、鎌倉五山第五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古利である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。 開山は退耕行勇律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。寺名を改称したのは正嘉年間(1257-59)とみられる。歴代の住持には約翁徳倹・高峰顕日(やくおうとくけんこうほうけんにち)、竺仙梵俸・天岸慧広(じくせんほんせんてんがんえこう)など名僧が多い。 五山にふさわしく、最盛期には二十三院の塔頭を有した大寺院であったが、火災で往時の伽藍はすべて失われた。現在は本堂の銅葺きの大屋根が、わずかにその面影を伝えている。 中興開基は足利尊氏の父貞氏で、没後当寺に葬られた。至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭二十三院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡等で伽藍を形成している。境内は国指定史跡となっている。 行勇律師(1163~1241)は相模国酒勾(小田原市)の人で初名は玄信、荘厳房と称した。幼くして薙髪出家し、真言密教を学んだ。養和元年(1181)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺・大慈寺の別当にも任じ、文治四年(1188)足利義兼が当山を建立すると開山に迎えられた。 正治元年(1199)栄西が鎌倉に下向すると、その門に入って臨済禅を修め、栄西没後は寿福寺二世に任じている。頼朝や政子に信任されて戒を授ける一方、「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望され、実朝もあつく帰依した ... 2011年11月20日再生回数 13 |
![]() | 鎌倉古寺百選ー浄妙寺の本堂④ 浄妙寺(鎌倉市浄明寺3) ―交通は横須賀線鎌倉駅東口から京急バススハイランド循環で10分、浄明寺下車、徒歩1分 正式名称は稲荷山浄妙禅寺で、鎌倉五山第五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古利である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。 開山は退耕行勇律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。寺名を改称したのは正嘉年間(1257-59)とみられる。歴代の住持には約翁徳倹・高峰顕日(やくおうとくけんこうほうけんにち)、竺仙梵俸・天岸慧広(じくせんほんせんてんがんえこう)など名僧が多い。 五山にふさわしく、最盛期には二十三院の塔頭を有した大寺院であったが、火災で往時の伽藍はすべて失われた。現在は本堂の銅葺きの大屋根が、わずかにその面影を伝えている。 中興開基は足利尊氏の父貞氏で、没後当寺に葬られた。至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭二十三院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡等で伽藍を形成している。境内は国指定史跡となっている。 行勇律師(1163~1241)は相模国酒勾(小田原市)の人で初名は玄信、荘厳房と称した。幼くして薙髪出家し、真言密教を学んだ。養和元年(1181)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺・大慈寺の別当にも任じ、文治四年(1188)足利義兼が当山を建立すると開山に迎えられた。 正治元年(1199)栄西が鎌倉に下向すると、その門に入って臨済禅を修め、栄西没後は寿福寺二世に任じている。頼朝や政子に信任されて戒を授ける一方、「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望され、実朝もあつく帰依した ... 2011年11月20日再生回数 11 |
![]() | 鎌倉古寺百選ー浄妙寺⑦ 浄妙寺(鎌倉市浄明寺3) ―交通は横須賀線鎌倉駅東口から京急バススハイランド循環で10分、浄明寺下車、徒歩1分 正式名称は稲荷山浄妙禅寺で、鎌倉五山第五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古利である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。 開山は退耕行勇律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。寺名を改称したのは正嘉年間(1257-59)とみられる。歴代の住持には約翁徳倹・高峰顕日(やくおうとくけんこうほうけんにち)、竺仙梵俸・天岸慧広(じくせんほんせんてんがんえこう)など名僧が多い。 五山にふさわしく、最盛期には二十三院の塔頭を有した大寺院であったが、火災で往時の伽藍はすべて失われた。現在は本堂の銅葺きの大屋根が、わずかにその面影を伝えている。 中興開基は足利尊氏の父貞氏で、没後当寺に葬られた。至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭二十三院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡等で伽藍を形成している。境内は国指定史跡となっている。 行勇律師(1163~1241)は相模国酒勾(小田原市)の人で初名は玄信、荘厳房と称した。幼くして薙髪出家し、真言密教を学んだ。養和元年(1181)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺・大慈寺の別当にも任じ、文治四年(1188)足利義兼が当山を建立すると開山に迎えられた。 正治元年(1199)栄西が鎌倉に下向すると、その門に入って臨済禅を修め、栄西没後は寿福寺二世に任じている。頼朝や政子に信任されて戒を授ける一方、「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望され、実朝もあつく帰依した ... 2011年11月20日再生回数 15 |
![]() | 傳道法師/ 太虛大師菩薩心行的認識上集-part1 傳道法師簡介傳道法師俗名朱清溫,一九四一年生于臺灣.臺南縣白河鎮。一九五八年在高雄佛教堂歸依三寶,一九六四年于高雄宏法寺禮開證上人出家。隨即負笈北上,先後于臺北臨濟寺戒光佛學院及中國佛教研究院求學。研究院畢業後,法師一面留在佛學院擔任教職,一面則繼續世學的進修。一九七三年,銜師命南下任妙心寺副住持;一九九二年,正式陞座繼任妙心寺第四代住持至今。目前,並任中華佛教百科文獻基金會董事長,及關懷生命協會理事長、漚汪人薪傳文化基金會董事。 在四十餘年化世度生的歲月裡,法師除擔任臺南監獄及看守所的榮譽教誨師,及臺南高工正思社的指導老師,各長達十年之久以外;也曾歷任福嚴佛學院、寶華佛學院、開元禪學院、妙雲蘭若、法印講堂、慈明佛學研究所、高雄正信佛青會與社會大學講師,以及臺南縣佛教會理事長與高雄佛教堂董事長。著有《佛法十講》 與《妙心文集》;編印有《朱玖瑩書法選集》、《蘇雪林山水》畫冊等,並策畫「人間佛教的播種者──印順導師」、「朱玖瑩書法天地」與「淨土的吶喊──臺灣環境和環保的故事」等錄影帶。 法師畢生所推崇弘揚者,為自佛陀以至印順導師的人間佛教思想,以及菩薩無我的精神;長以發菩提心,上求下化的凡夫菩薩自期。對於人間佛教,法師將其特色歸納為:此時、此地、此人的關懷與淨化──妙心寺即依此作為行動的指導原則,而開展各項社會關懷、環境關懷與社區教育等工作。 由於矢志弘揚人間佛教思想,再加上法師出家初期,即曾針對文獻史料、佛教典籍等,作過有系統的蒐集,因此為妙心寺奠下以文化、教育弘法的根基。一九八四年,中華佛教百科文獻基金會,在開證上人及佛教界有心人士的共同促成下成立;法師即爭取將《中華佛教百科全書》的編委會,設在妙心寺內,並任執行秘書一職。一九九五年,這一套由佛教歷史學者藍吉富老師所主編,總共 ... 2009年12月03日再生回数 504 |









