「義和団の乱」に関連した動画の一覧 |
![]() | 桂太郎自伝【北清事変記述】 義和団事件と日本の軍事外交駈け引き 【実際に於ては此を以て将来東洋の覇権を掌握すべき端緒なりとす】 桂太郎自伝の北清事変記述部分には、当時の帝国日本の中国大陸における覇権主義が明確に記述されている。明治維新後33年にして、日本は大陸での覇権を狙うまでになったのだ。 日清戦争は朝鮮半島の覇権を巡る清国と日本との戦いであったが、北清事変(中国名:庚子事変)は、中国大陸の覇権を握ることを明確に打ち出した帝国日本の大きな転換点であった。その意味で、この自伝は極めて価値のある近代歴史資料である。 --------------------------------- 【言を換ていへば我が覇権を握る端緒にして、所謂処女脱兎の策にて、初めは少数の兵を保険料として出すの計画なり】と言って、先ず先遣隊の福島安正少将に少数の兵をつけて派遣し、列国が兵力に窮乏して日本に更なる出兵を要請すると、【即ち保険料を転じて大株主の地位に立つものなれば、予め其覚悟をなさざるべからずと云に在り】と言い、第五師団(8000人)を出征させた。北京制圧の後は、【成るべく速かに我兵力の大部分を引上げ、前に云保険料を払ふに止め、即ち相当なる列国の伴侶たるを失はずといふを程度となし、将来に於ける極東問題に着々歩を進むるこそ緊要なれ】と言って、速やかに3/4の兵力を日本に戻すことを画策した。政府内に一部の反対意見もあって、結局は半分の兵力を撤収したのだったが、満州に侵攻したロシアが兵を一切撤収しなかったのとは大きく異なり、日本は列国の安心感、信頼感を得たのである。 --------------------------------- 先の日清戦争で獲得した遼東半島を三国干渉の外交力で失うのを苦い教訓とする桂太郎は、軍事と外交をうまくバランスするのに長けた優れた戦略家、知略家であった。このことは彼の自伝を読むと強く感じる点である。1904年に ... 2008年09月23日再生回数 4639 |
![]() | 天津旧跡探訪(2) 義和団記念館 義和団事件は、貧しい民衆の間で広まった土俗宗教と行先の見えないナショナリズムが合体してもたらした、大衆の怒りの運動を、時の為政者がコントロールできなくなり、逆に扇動し利用しようとしたために起きた国家的悲劇である。排外的な宗教ナショナリズムや民族ナショナリズムが国を滅ぼすという教訓である。 ―――――――――――――――――――――――― 義和団は、清の中期に山東省に生まれた、義和拳という武術を修練した宗教結社であって、白蓮教の一派と言われている。白蓮教は、貧しい農民層を基盤とし、紅巾をかぶるのを特徴とする仏教念仏結社であったが、社会情勢が安定を欠き、それに乗ぜんとする野心家の扇動にあうと、たちまち強大な反抗勢力となり、元・明・清の歴代王朝で繰り返し反乱を起こしてきた。その流れを汲む義和団信者らの信仰も極めて土俗的なもので、義和拳を修練すれば不死身の身体となり、さらに練術すれば天を飛翔する魔力を得ることができるものと信じられていた。 1860年の北京条約以降の山東半島でのキリスト教会拡大への反感が強まるなか、1897年に山東半島でドイツ人宣教師殺害事件が発生した。これを口実にドイツが山東半島に進出すると、華北地方一帯で本格的な排外大衆運動へと発展した。さらに、1900年の春は山東省一帯を中心に干ばつが起き、大量の浮浪民が発生し、義和団を更に膨れ上がらせた。排外活動を行う中で巨大化する義和団に対して、清朝は当初は鎮圧の姿勢をとった。しかし、1900年6月に義和団が20万人の勢力となって北京に入り、日本公使館書記とドイツ公使を殺害するに至ると、西太后ら清朝の保守・排外派は義和団を利用して外国人を一掃しようとしたため、列強8カ国(日本・ロシア・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア)は、在留邦人を保護 ... 2008年07月20日再生回数 3000 |
![]() | 幻の馬家堡 #2 発見!義和団によって焼失した北京最古の鉄道駅 清王朝末期の『馬家堡時代(1897~1900)』に存在した中国北京最古の鉄道駅「馬家堡 (まぁじゃぷ) 駅」はどこにあったのか? これは、「まぁじゃぷ」を探し求め、その遺構を発見するまでの記録映像。構想から半年間、多くの調査をした結果を11分間に凝縮してみた。 ◆◆◆ 馬家堡に駅ができ、北京と天津が鉄道でつながったのが1897年の夏。その年の11月に起きたドイツによる山東半島占領事件は、玉突きのように列国の中国分割を誘発した。このとき立ち上がったのが、光緒皇帝自らによる上からの「戊戌の変法運動」であり、農民らによる下からの「反キリスト教主義の義和団運動」であった。この2つの改革運動の全てが頓挫した1900年夏、馬家堡駅もまた義和団の手によって炎上焼失し、その後の歴史から消え去った。それからの清国は去勢された馬のようにおとなしくなり、間もなく、大衆も清王朝を見限ることとなった。 ----------------------------- 中国近代史において、馬家堡駅が旅客駅として使われていた時代(1897~1900)を『馬家堡時代』と呼ぶことにする。わずか3年間ではあったが、中国近代史の全てがここに凝縮されている。清国が自らによる改革の痛みに悲鳴をあげ、結局は挫折し絶望感に打ちひしがれた時代。当時の清王朝が馬家堡時代の改革運動の舵取りに成功していたなら、それ以降の中国の歴史は大きく変わっていたに違いない。辛亥革命も、共産主義革命も別な形になっていただろう。中国二千年の歴史を持つ「皇帝主義原理」が凍結されたまま今日に至り、「人民主権主義」がいまだに確固として確立できていない今日中国の原点。歴史を『馬家堡時代』まで遡ることによって、現在の中国の課題が見えてくる。 ----------------------------- 『馬家堡時代』には、伊藤博文や袁世凱などの歴史の ... 2009年01月15日再生回数 2536 |
![]() | 34 中華人民共和国成立 1899 義和団事件 2011年09月07日再生回数 106 |
![]() | 4e 34 1899 義和団事件 2012年02月08日再生回数 30 |
![]() | 老舎吐了一口気朗読(老舍吐了一口气) 義和団事件について、八ヵ国連合国側からの記録は比較的多いが、中国側から書かれたものは極めて少ない。老舎の「吐了一口気」は、その数少ない中国側からのものである。八ヵ国連合軍による父親の死、一般市民への掠奪と暴行を、母親の口伝をもとに描写しつつ、戯曲「義和団(神拳)」を書くに至った経緯を解説している。 ◆◆◆----------------------------- 老舎は、満州族の八旗の一つである正紅旗の旗人の家に生まれた。本名は舒慶春。1900年、彼が一歳半のとき、義和団の乱(Boxer Rebellion)が世界を震撼させた。義和団は、中国華北地域におけるさまざまな集団による反キリスト教会、反西洋の運動が複合し、「排外運動」として発展したものだ。義和団の攻撃によって、北京では公使館区域(東交民巷)居留民が籠城を強いられ、彼らを救出するために八カ国連合軍(イギリス,アメリカ,フランス,ロシア,ドイツ,イタリア,オーストリア、日本)が組織され、北京侵攻となった。連合軍の半数は日本兵だった。 この年の8月14日(火曜日)早朝、八カ国連合軍は北京内城への攻撃を開始し、同日夕刻には公使館区域を開放するに至った。翌15日朝、西太后は光緒帝を伴い、地安門から紫禁城を脱出し、山西省に向け蒙塵した。老舎の父親は当時清国守備隊にいたが、この日の午後、地安門外で戦死した。 講演録「北京籠城」で知られる柴五郎中佐が率いる、二大隊の日本兵が、この時、地安門を攻撃し、清国軍と熾烈な戦いをしている。老舎の父親はこの戦いで戦死したものとKyle Yingtianは推測する。 主のいなくなった帝都では、征服者が掠奪の限りをつくしたと言われている。 ----------------------------------- この事件を日本側から見た資料として、「桂太郎自伝 北清事変記述部分」(↓)がある。 jp.youtube ... 2008年11月16日再生回数 1686 |
![]() | 男装の麗人 川島芳子の生涯 1/4 男装の麗人 川島芳子の生涯 1/4 公式ブログ: blogs.yahoo.co.jp 川島芳子(1906年5月24日-1948年3月25日)原名爱新觉罗·显玗,漢名金璧輝,字東珍,號誠之,滿洲鑲白旗人。因曾替日本长期做間諜而知名,被稱為「东方的玛塔·哈里」。 川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日 - 1948年3月25日)とは清朝の皇族粛親王の第十四王女である。 本名は愛新覺羅 顯㺭(あいしんかくら けんし)、字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もある。 粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。1927年にパプチャップ将軍の二男で蒙古族のカンジュルジャップと結婚したが3年ほどで離婚した。その後上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれているが(田中隆吉の回想による)、実際に諜報工作をやったのかなど、その実態は謎に包まれている。 戦後間もなく中華民国政府によって漢奸として逮捕され、銃殺刑となったが、日中双方での根強い人気を反映して現在でも生存説が流布されている。 川島芳子こと愛新覺羅顯シは粛親王善耆の第十四王女として光緒33年4月12日(西暦1907年5月24日)、北京の粛親王府に生まれた。生母は粛親王の第四側妃。粛親王家は清朝太宗ホンタイジの第一子粛武親王豪格を祖とし、建国の功績により親王の位を世襲することが認められた親王家だった(一般の皇族の爵位は一代ごとに親王 →郡王 → 貝勒と降格してゆく)。 字の「東珍」は、日本へ養女にだす際に、東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いをこめて粛親王がつけたもの。また漢名の金璧輝は兄金壁東からとったもので、当初は壁だったが、後に芳子本人が璧を用いるようになった。(金壁東の「壁 ... 2011年01月04日再生回数 18736 |
![]() | 渡部昇一日本の歴史03_日清戦争06_北清事変 2010年12月20日再生回数 1319 |
![]() | 男装の麗人 川島芳子の生涯 2/4 男装の麗人 川島芳子の生涯 2/4 公式ブログ: blogs.yahoo.co.jp 川島芳子(1906年5月24日-1948年3月25日)原名爱新觉罗·显玗,漢名金璧輝,字東珍,號誠之,滿洲鑲白旗人。因曾替日本长期做間諜而知名,被稱為「东方的玛塔·哈里」。 川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日 - 1948年3月25日)とは清朝の皇族粛親王の第十四王女である。 本名は愛新覺羅 顯㺭(あいしんかくら けんし)、字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もある。 粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。1927年にパプチャップ将軍の二男で蒙古族のカンジュルジャップと結婚したが3年ほどで離婚した。その後上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれているが(田中隆吉の回想による)、実際に諜報工作をやったのかなど、その実態は謎に包まれている。 戦後間もなく中華民国政府によって漢奸として逮捕され、銃殺刑となったが、日中双方での根強い人気を反映して現在でも生存説が流布されている。 川島芳子こと愛新覺羅顯シは粛親王善耆の第十四王女として光緒33年4月12日(西暦1907年5月24日)、北京の粛親王府に生まれた。生母は粛親王の第四側妃。粛親王家は清朝太宗ホンタイジの第一子粛武親王豪格を祖とし、建国の功績により親王の位を世襲することが認められた親王家だった(一般の皇族の爵位は一代ごとに親王 →郡王 → 貝勒と降格してゆく)。 字の「東珍」は、日本へ養女にだす際に、東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いをこめて粛親王がつけたもの。また漢名の金璧輝は兄金壁東からとったもので、当初は壁だったが、後に芳子本人が璧を用いるようになった。(金壁東の「壁 ... 2011年01月04日再生回数 8003 |
![]() | 正統史観年表_pv 正統史観年表(大東亜戦争 第二次世界大戦 太平洋戦争にいたる経緯年表) p.tl my日本sns.mynippon.jp 2011年11月25日再生回数 122 |









