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![]() | 書道 御物【伊都内親王願文】10 橘逸勢 ★★★★ 臨書 教秀 hm5771.blogspot.com 橘 逸勢さま、ありがとうございます。 804年(延暦23年)、最澄さま・空海さまと共に遣唐使として唐に渡る。 承和7年但馬権守。 842年(承和9年)嵯峨上皇が没した2日後、皇太子恒貞親王の東国への移送を画策し謀反を企てているとの疑いで、伴健岑とともに逮捕された。両者は杖で打たれ続ける拷問を受けたが、両者共に罪を認めなかった。ついには、仁明天皇より両者が謀反人であるとの詔勅が出され、健岑は隠岐(後に出雲国に移されたが経緯は不詳)に、逸勢は伊豆へ配流。恒貞親王は皇太子を廃された(承和の変)。逸勢は伊豆への護送途中に、遠江板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没した(60余歳という)。このとき、逸勢の後を追っていた娘は板築駅まできたときに父の死を知り、悲歎にくれた。その娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた。 死後、逸勢は罪を許され、853年には従四位下の位を贈られた。その際に逸勢の娘の孝行の話が都に伝わり賞賛された(『日本文徳天皇実録』)。ただし、嗣子の達保に関する記述はない(系譜によると、逸勢の系統は孫の保昌、曾孫の直幹までの名が記されている)。 逸勢は、菅原道真・文屋宮田麻呂・早良親王・伊豫親王など不慮の死を遂げた人物と共に「八所御霊」として京都の上御霊神社と下御霊神社に祀られている。 【伊都内親王願文】(いとないしんのうがんもん) 桓武天皇の第8皇女伊都内親王が、生母藤原平子の遺言により、天長10年(833年)9月21日、山階寺東院西堂に香灯読経料として、墾田十六町余、荘一処、畠一丁を寄進されたときの願文である。楮紙に行書で68行あり、末字に「伊都」の2字がある。朱で捺された内親王の手形が25箇所ある。 天長10年(833)9月21日 September 21 ... 2009年06月20日再生回数 1714 |
![]() | 下御霊神社京都 社伝によれば、大同二年(809年)不運のうちに亡くなった伊予親王(桓武天皇の皇子)その母の藤原吉子の霊をなだめるために、 承和六年(839年)に創建されたといわれている。 祭神は、後に崇道天皇(早良親王(さわらしんのう))・吉備真備・藤原広嗣・橘逸勢・文屋宮田麿・火雷天神を加えて八所御霊としている。 当初、出雲路(上京区)にあり、御霊神社の南にあったことから、下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、 天正十八年(1590年)豊臣秀吉の都市整備により当地に移転してきた。古来より、御所の産土神として崇敬され、 享保年間(1716~36年)霊元天皇は当社に御幸し、宸筆の祈願文を納めている。 本殿は寛政三年(1791年)仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は旧建礼門を移したものといわれている。 境内の垂加社には、江戸時代の国学者、山崎闇斎を祀る。 <八所御霊(はっしょごりょう)> 京都には多くの怨霊が存在し、その中で特に強い8つの怨霊が祀られている 863年(皇紀1523)貞観5年 清和天皇が、神泉苑の御霊会の祭神6座を、京極の東の下出雲寺に祀ったのが由来 <崇道天皇(すどうてんのう)> 桓武天皇の皇太子 早良親王 長岡京遷都の際に起こった藤原種継暗殺事件に関わったとして乙訓寺に幽閉され死去した親王 後に、崇道天皇(すどうてんのう)と追称される <伊予親王(いよしんのう)> 桓武天皇の皇子、平城天皇の弟 平城天皇即位に際して謀反の疑いを受け(承和の変)、自殺した <藤原大夫人> 伊予親王の母親 藤原吉子(ふじわらのよしこ) <藤原大夫> 藤原広詞(ふじわらのひろつぐ) 九州に左遷後に反乱を起こして殺される <橘大夫> 橘逸勢(たちばなのはやなり) 皇太子 恒貞親王を擁して謀反をはかり、伊豆に ... 2010年09月23日再生回数 754 |
![]() | 書道 御物【伊都内親王願文】5 橘逸勢 ★★★★ 臨書 教秀 橘 逸勢さまhm5771.blogspot.com 804年(延暦23年)、最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。840年(承和7年)但馬権守。 842年(承和9年)嵯峨上皇が没した2日後、皇太子恒貞親王の東国への移送を画策し謀反を企てているとの疑いで、伴健岑とともに逮捕された。両者は杖で打たれ続ける拷問を受けたが、両者共に罪を認めなかった。ついには、仁明天皇より両者が謀反人であるとの詔勅が出され、健岑は隠岐(後に出雲国に移されたが経緯は不詳)に、逸勢は伊豆へ配流。恒貞親王は皇太子を廃された(承和の変)。逸勢は伊豆への護送途中に、遠江板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没した(60余歳という)。このとき、逸勢の後を追っていた娘は板築駅まできたときに父の死を知り、悲歎にくれた。その娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた。 死後、逸勢は罪を許され、853年には従四位下の位を贈られた。その際に逸勢の娘の孝行の話が都に伝わり賞賛された(『日本文徳天皇実録』)。ただし、嗣子の達保に関する記述はない(系譜によると、逸勢の系統は孫の保昌、曾孫の直幹までの名が記されている)。 逸勢は、菅原道真・文屋宮田麻呂・早良親王・伊豫親王など不慮の死を遂げた人物と共に「八所御霊」として京都の上御霊神社と下御霊神社に祀られている。 在唐中、書は柳宗元に学び、唐人は逸勢を橘秀才と賞賛したという。逸勢の真跡として確認できるものは今日ほとんど伝わっていない。その中で、空海の三十帖冊子の一部分、興福寺南円堂銅燈台銘、伊都内親王願文が逸勢の筆とされているが確証はない。ただ逸勢以外の書家からその書風を見出すことができないので、逸勢の筆と推定されている。 2009年05月24日再生回数 535 |


