「足利氏」に関連した動画の一覧 |
![]() | 日本100名城巡り13 №15足利氏館 2010/07/03 2010年7月3日(土)、足利氏館(栃木県足利市)を訪れました。城域は鑁阿寺(ばんなじ)の境内で、堀と土塁、太鼓橋と楼門の風景がきれいでした。大御堂(本堂)は修復中で、2010年いっぱいかかるそうですが、2011年正月には覆いが除かれ元の美しい姿を見せるとのことです。 2010年07月05日再生回数 737 |
![]() | 鑁阿寺足利氏宅跡"Bannaji" Japanese temple 栃木県足利市の鑁阿寺にある足利義兼の屋敷跡。邸内に持仏堂を建てたのにはじまり、以来足利家の氏寺となっているそうです。すぐ隣には日本最古の総合大学といわれる史跡足利学校があります。音楽はiKaossilatorで作りました。 2012年05月06日再生回数 106 |
![]() | 足利氏ゆかりの寺 石龕寺もみじ祭(兵庫県・山南町) 平成23年11月20日に、兵庫県丹波市山南町にある岩屋山・石龕寺で、"もみじ祭"が行われました。まつりでは武者行列や護摩供養・火渡りのほか、福引きやバザーなどの各種イベントが行われ、約3,500名の来場者で賑わいました。 2011年11月25日再生回数 221 |
![]() | 石龕寺紅葉スナップ写真 足利氏ゆかりの寺として知られる石龕寺は、足利尊氏が戦に敗れて京都から逃れる際、足利尊氏と子の足利義詮が滞在したと伝えられている寺です。石龕寺もみじ祭では足利氏にちなんで、足利尊氏と足利義詮らの侍大将やよろいを着た武士に扮装した武者行列山南町を練り歩くそうです。今年は11月21日(日)実施予定です。 2010年11月14日再生回数 118 |
![]() | 太平記 第5話「あやうし足利家」 足利高氏を救う事を決意する赤橋兄妹 登子「今日の審問、如何でございました」 守時「登子の見立て通りじゃ」 登子「では無実でございますか」 守時「無実だが、長崎殿は斬るおつもりじゃ」 守時「ここが思案のし所よ。登子、お元は足利殿をどう思う、一度会うたのであろう」 登子「古今六帖の写本をお返しに見えました時・・・」 守時「どう思うた」 登子「正直なお方だと」 守時「死なすには惜しいと思うか」 登子「良いお方ですもの」 守時「良いとはどれ程良い、嫁に行けと言えば、行っても良いと思う程の人物と見たか」 登子「はい!」 守時「よし、足利高氏救うて見よう。このまま北条の敵とするには惜しい男よ」 2012年04月30日再生回数 264 |
![]() | Taiheiki Minatogawa Battle 4 凑川之战,是日本历史上重要战役之一。為後醍醐天皇與足利尊氏的決戰,以足利氏的勝利告終。湊川為日本古地名,即今神戶。著名皇軍將領楠木正成在此戰中陣亡。 [编辑] 簡介日本後醍醐天皇建武三年(1336年)1月,足利尊氏及弟足利直義從京都敗走,翌月逃至九州,4月時在博多重新集結大軍分海陸二路向京都進兵。尊氏率領海路並與細川氏統率的四國地區兵力在海上會合,直義則率領陸路,一同進逼京畿。 楠木正成見足利軍勢龐大,京都現有兵力並不足以對抗,便建議後醍醐天皇臨幸行在暫避軍勢,他也可回自己河內、和泉二處領地招募兵力來對抗足利大軍。但公家大臣仍沉溺在年初收復京都的勝利中,認為足利軍不可怕,託言官軍有帝祖天照大神庇護,必能戰勝敵人,反對遷都要求迎戰,天皇聽信讒言,強令楠木正成與新田義貞二人出戰。 楠木與新田二人無奈率兵出擊,缺乏水師的楠木新田軍在陸上佈陣迎擊足利軍,新田軍在湊川佈陣,楠木軍則在湊川以西的西野宿佈陣,而楠木軍兵力僅數百人左右。戰役之初,足利海路東進軍細川定禪在湊川附近的生田森林登陸,此時新田義貞感到自己後路有被截斷之虞連忙退兵,獨留楠木正成迎戰足利直義的數萬足利陸路軍。楠木正成雖兵力居於劣勢,仍舊奮戰到底,但寡不敵眾兵敗湊川。 足利直義遣使招降楠木正成,但被拒絕。楠木正成見大勢已去又不願投降,便對其弟楠木正季說:「我願七生轉世報效國家。」與正季對刺自殺殉國。 楠木正成死前遺言「七生報國」後來成為第二次世界大戰日軍的口號,也是神風特攻隊的精神訓令,特攻隊員頭上綁著寫有「七生報國」的頭巾,駕駛飛機執行自殺式攻擊任務。 2011年03月21日再生回数 20271 |
![]() | Taiheiki Young Takauji In Love 赤橋登子 赤橋 登子(あかはし とうし、徳治元年(1306年)-貞治4年/正平20年5月4日(1365年5月25日))は、日本の鎌倉時代から南北朝にかけて生きた女性。室町幕府初代将軍足利尊氏の妻。 系譜 北条氏一族では得宗家に次ぐ高い家格を有した赤橋家の出身。父は北条久時。兄には、鎌倉幕府の最後の執権となった守時、最後の鎮西探題となった英時がいる。 息子に、室町幕府2代将軍足利義詮、初代鎌倉公方足利基氏、娘に鶴王がいる。 幕府では北条氏に次ぐ高い地位にあり、代々の当主が北条氏一族と婚姻関係を結んできた有力御家人足利氏の跡取り息子であった尊氏に嫁ぎ、嫡男千寿王(後の義詮)を産んだ。正慶2年(1333年)に夫尊氏が、後醍醐天皇の呼びかけに応じた叛乱勢力の鎮圧のため総大将として出陣した際には、千寿王とともに人質として鎌倉にとどめ置かれたという(『太平記』)。その後、夫が叛乱勢力に合流すると母子は鎌倉を脱出したが、入れ違いに新田義貞が率いる叛乱軍によって鎌倉は攻め落とされ、実家赤橋家をはじめ北条氏一族は滅亡している。板挟みとなった彼女の苦悩は想像に余りある。 尊氏が室町幕府を樹立して権力を握ると、御台所として従二位に叙せられた。『諸家系図纂』に収める北条氏の系図には「義詮卿并基氏宮妃等母儀」とあり、少なくとも二男一女に恵まれたことになる。そのほかにさらに一男三女があったとする説(田辺久子)もある。一方、直冬らの尊氏の庶子を虐待した冷酷な母親であったとの評(谷口研語)もある。延文3年(1358年)に尊氏が死去すると「大方殿」と呼ばれた。「大方禅尼」とも呼ばれていることから、夫の死に殉じて出家したらしい。貞治4年(1365年)5月4日、死去。享年60。戒名は登真院殿定海大禅定尼。等持院に火葬により埋葬された。従一位の位階を追贈されている。 2011年01月14日再生回数 3483 |
![]() | 鎌倉古寺百選ー何度でもきたい絶景のポイント/瑞泉寺④★5 瑞泉寺(ずいせんじ)(鎌倉市二階堂710) 京都では西芳寺・天竜寺・竜安寺・妙心寺など数多くの名園をもつ禅刹があるが、鎌倉の場合、名庭園を残すのは、建長寺・円党寺・瑞泉寺の三寺だけといってよい。このうち、梅・水仙・紅葉など、四季折々の変化に富む境内のせいもあって、多くの人びとに親しまれているのが瑞泉寺である。 ヤマザクラ・ハナノキ・カへデなどの種類は多い。庭園の梅と水仙とが名高く、紅葉もみごとである。本堂前のオウハイ(黄梅)は市指定の天然記念物でもある。 瑞泉寺(ずいせんじ)は臨済宗円覚寺派。山号は錦屏山。開基は幕府の有力な御家人であった二階堂道薀、本尊は地蔵菩薩。嘉暦二年(1327)の創建である。。開山は夢窓疎石、中興の開基は足利基氏。紅葉ヶ谷は紅葉の名所であり、山号もそれにちなんでつけられたという。はじめは瑞泉院といった。 嘉暦元年(1326)、永福寺傍らの南芳院に寓居していた夢窓疎石は翌年の「瑞泉院」創建に伴い移住して、同三年には観音殿、山頂に循界一覧亭を造り、庭園もこの頃、作られたと見られる。 疎石が幼年期を過ごした甲斐(山梨)は二階堂道薀の領地であり、そんな関係から疎石のために寺を建立したと考えられる。 同寺の説明では「紅葉ケ谷を囲む三方の山が天然の垣根の、わずかに開けた西の空に富士山を仰ぐこの地に、天台山、錦屏山を背景として、夢窓国師は庭園を作られました。 鎌倉石の岩盤に巧みな彫刻をほどこした。北の一隅の岩壁の正面に大きな洞(天女洞)を彫り、東側には坐禅のための窟(坐禅窟・藻光窟)をうがった。 天女洞の前には貯清池、池の中央には島をつくり、水流を東側に辿れば滝壷に、垂直の岩壁は滝、その上方には貯水槽があり、要に応じて流水する」とある。 このように岩盤を彫刻的手法によって造園 ... 2011年11月28日再生回数 115 |
![]() | 証人・佐々木判官の名演技 太平記 第5話「あやうし足利家」 評定衆一同の高氏への審問が始められた。長崎高資は厳しく質問を突きつると、高氏は一つ一つ釈明する。そして日野俊基と会っていたことを頑として否定する。しかし証人・佐々木道誉が姿を現すと、高氏は青ざめる。道誉は自分が執権の命を受けて謀反の動きに目を光らせて参ったと説明し、「日野はそれがしの網にかかった愚かな党でござる」とあざ笑う。そして日野と共に「足利高氏」も佐々木邸を訪ねてきたと証言する。「その足利高氏とは、そこに控えし足利よの?」と高資が問うと、道誉は「いや...これに控えし者は足利高氏にあらず」という意外な言葉だった。「我が館に来た高氏は赤ら顔で身の丈六尺の大男...かかる不思議のあることよ!」と言い出す。 2012年04月30日再生回数 334 |
![]() | 太平記 第1話「父と子」⑤ 足利又太郎(高氏)の元服式 片岡鶴太郎 足利又太郎は元服し執権・北条高時より高の一字を賜り高氏と名乗る事を命じられた。しかし高時より思わぬからかいを受け、一同、戸惑い、顔を見合わせるのだった。 高時「頭を上げい。頭を上げてみい。上がらぬのか。上げられぬようじゃのう。」 高時「ヒヒヒヒヒいま少し力があるように見えたが、存外非力じゃのう。ホッホホホホホ」 2012年04月29日再生回数 218 |









