「軍記物語」に関連した動画の一覧 |
![]() | 講演 「軍記物語の世界」田中欣一 信州図書館文化講座 平家物語琵琶紀行 松本会場 平成24年3月22日 2012年03月22日再生回数 20 |
![]() | 肥後琵琶 山鹿良之 菊地くずれ五段 九州の歴史を題材にした段物と呼ばれる長編、《菊池くずれ》(軍記物) 熊本県玉名郡南関町出身で、 国の選択無形文化財である肥後琵琶の演奏者だった 山鹿良之(やましかよしゆき) (芸名 玉川教演1901~96) 琵琶語りひと筋に生き、最後の芸人と呼ばれた。 外題(演目)の数は1段30分以上のものが、頭の中に200段以上とも。 2012年02月06日再生回数 317 |
![]() | Taiheiki Takauji's Rendezvous with Actress Lover 白拍子1 Shirabyōshi (白拍子) Shirabyōshi (白拍子?) were female dancers, prominent in the Japanese Imperial Court, who performed traditional Japanese dances (the dances themselves also called shirabyōshi[citation needed]) dressed as men[citation needed]. The profession of shirabyōshi developed in the 12th century. They would perform for nobles and high-ranking samurai, and at celebrations. They are sometimes referred to as courtesans in the English language, but that term refers to a high-class prostitute, so this is rather incorrect. By nature they were performers. Though some shirabyōshi would give birth to nobles' children, this was not their purpose. 白拍子(しらびょうし)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人。主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいた。素拍子(しらびょうし)とも書き、この場合は無伴奏の即興の舞を指す。 複数の白拍子が登場する鎌倉時代前期の軍記物語『平家物語』では、白拍子の起源について「鳥羽院の時代に島の千歳(せんさい)、和歌の前という2人が舞いだしたのが白拍子の起こりである」としている[1]。 また「初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた。」と解説している[2]。 2011年01月17日再生回数 3353 |
![]() | 文学史替え歌/ 嵐:揺らせ、今を/ For Nayu! 歌詞は↓ 嵐の[揺らせ、今を]で替え歌(^^) 作り物語、歌物語、歴史物語、 説話、軍記の作品と作者を覚える歌!! 歌詞↓()内は歌わない! 源氏に影響与えた 作り物語次の3つ竹取(物語)に宇津保(物語) 落窪物語落(窪物語)、住(吉物語)継子いじめ源氏の影響を受けた 作り狭衣(物語) 夜の寝覚め浜松(中納言物語)に堤中納言物語とりかえばや物語源氏(に)影響与えた歌は伊勢(物語)に、大和(物語)に、平中(物語) 歴史は栄花(物語)に四鏡の大(鏡)、今(鏡)、水(鏡)、増(鏡) 説話は今昔(物語集)、発心(集) 宇治拾遺(物語集)に十訓抄古今著聞集、沙石集鴨の鴨の鴨の長明(鴨長明) 発心集書いたよ橘成季(たちばなのなりすえ)は古今著聞集書いたよ今昔(物語集)だけは平安作品残りは中世作品(注意!説話の中での話! 残りというのは、発心、宇治、 十訓、古今著、沙石のこと!) 軍記 軍記 軍記保元(物語) 平治(物語) 平家 平家 平家は信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが) が書いたのかも知れない分からない太平記に曽我(物語)に義経記 2012年01月29日再生回数 996 |
![]() | 早春の新田義貞公墓所= 称念寺(福井県坂井市) 新田義貞公の菩提所・称念寺(坂井市丸岡町)、早春の境内風景です。梅、サザンカ、スイセン、沈丁花など早春に咲く花が見ごろを迎えていました。 称念寺によると、浪人中の明智光秀公が称念寺を訪ねたのが1562(永禄5)年、そして門前に寺小屋を建てて生活をしていたという。江戸時代に入ると、松尾芭蕉が称念寺を訪れ、その頃の光秀夫婦を「月さびよ 明智の妻のはなしせむ」と詠んだと伝えられています。 その頃に思いを馳せると、称念寺またはその付近には、早春の花がいっぱい咲いていて、光秀夫妻が仲良く境内付近を散策する様子が目に浮かぶようです。 一方、足利・新田公の活躍の時代が描かれた軍記物語「太平記」によると、南朝方の新田義貞が1338年(暦応元年)7月2日、灯明寺畷(現福井市新田塚)の藤島の戦いで戦死した時、北朝方の斯波高経が義貞の遺骸をこの長崎称念寺に埋葬したと伝えられています。 この動画の後半に出てくるりっぱな唐門の奥に、義貞のお墓があります。 唐門の戸を明けて中に入ると、2.6m余の五輪石塔に圧倒されましたが、これは、福井藩主の松平宗矩が1837(天保8)年、義貞の500回忌にあたり、旧墓石を埋めてその上に建てたという。新田氏は徳川の祖先といわれていることから、福井藩主・松平家もこの菩提所をとても大切にしたようです。 ところで称念寺の宗派、時宗(じしゅう)は、鎌倉末期に一遍上人が開いた浄土教の一宗派です。新田義貞と時宗の関係は、義貞の故郷の群馬県に時宗の有力な道場があったことから、その縁で、義貞も時宗の陣僧を連れていたと伝えられています。義貞が越前で合戦していた頃、称念寺は越前の中心的な時宗の道場であったようです。ちなみに、時宗の総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)です。 2012年05月03日再生回数 62 |
![]() | YOSHITSUNE ~牛若丸と静 悠久の愛の物語~ PV Apple App Store にて第一話無料! itunes.apple.com 無料携帯マンガ配信サイト「0maga(0マガ)」 0maga.jp 各携帯マンガ配信サイトにて絶賛配信中! 源平の争乱で名を馳せた悲劇の英雄「源九郎義経」の波乱に満ちた生涯を、「嬢王」「女帝」「夜王」の倉科遼が新進気鋭の漫画家・羽崎雅と描いた、華麗なる軍記絵巻がここに誕生! 2011年08月10日再生回数 1072 |
![]() | シネマ歌舞伎『一谷嫩軍記 熊谷陣屋』予告編 戦の世の無常と、人生の儚さ。生きる意味を問う古典歌舞伎の名作。 2011年10月8日より全国にて配給:松竹www.shochiku.co.jp (C) 松竹株式会社 2011年07月28日再生回数 1047 |
![]() | 葵と楓020:マンボ・ドドンパ・チャチャチャ節 日本音楽豆知識020 『源平合戦図屏風』の中の,平敦盛(たいらのあつもり)という笛の名手について・・・時代は,平安時代末期 で,嘉応元年-元暦元年(1169-1184)という短い人生でした。主君は,安徳天皇で,父は,平経盛です。 笛の名手であり,祖父平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』という名の笛を譲り受ける。平家一門として17歳,一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け,平氏側が劣勢になる。敦盛は,騎馬で海上の船に逃げようとしていた。これを,熊谷直実が発見。敵に後ろを見せるのは卑怯者!と呼び止める。敦盛が取って返すと,直実は敦盛を馬から組み落とす。さて,首を斬ろうと甲を上げると,美しい若者の顔を見て躊躇する。わが子と変わらない子どもだ。直実は敦盛を助けようとする。しかし,敦盛は首をはねよ!と譲らない。それではと,直実は,敦盛の首をとる。首をいざ包もうとすると,鎧直垂(よろいひたたれ)の中に,錦の袋に包まれた笛を発見する。平家一門は,衰退していく戦の中でも,管弦を忘れなかったのか・・・と感慨を深くする。直実は,この事件をきっかけに,出家の志を強くしていく。その後,この笛は,源義経に届きます。これを見るひと,涙ながざずといふ事なし。この『平家物語』の名場面は,のちに能『敦盛』・幸若舞『敦盛』・謡曲『敦盛』・歌舞伎『一谷嫩軍記』などの題材となる。織田信長の好んだ歌『人間五十年,下天のうちをくらぶれば,夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか』は幸若舞の『敦盛』の一節。 参考文献:はじめての雅楽,笹本武志 2011年07月11日再生回数 316 |







